山を駈ける風になれ2009年 4月号

 
2009年3月1日(日)有馬・山口/2つの功地山(2.5万図 有馬・宝塚)
古地図に記されながら現代の地図から名前が消えた山を訪ねる。

寛延元年(1748年)『摂津之国名所細見絵図』に「功地山」という山が2つ描かれている。有馬に1つ、
下山口(西宮)に1つ。古地図に同一の山が2つ描かれるのは珍しくないことで、六甲山についても「六甲
山」、「武庫山」と表記は違えど2つ描かれている。
どうして同一の山といえるのかというと、ほぼ同じ場所に表裏の関係で描かれていることが多いからである。
ただ「功地山」の場合は微妙に間隔が空いているのだが・・・。

とはいえ「功地山」も時代が下って天保7年(1836年)に発行された『新改正 摂津国名所旧跡細見大
絵図』には有馬に1つ描かれているだけである。そんなわけで「功地山」が今のどの山を指すのかは知らな
いが、有馬温泉の後背の山のいずれかを指すのだろうということで私の記憶からは消えていた。

そんな折、“西宮自転車散歩シリーズ”を綴るにあたって時々参考にさせてもらっている、いきつけのサイ
クルショップのオヤジさんから頂いた本をパラパラめくっていると、山口町(西宮市)の町名の由来につい
て「有馬山へ通じる功地山の入り口」という一節が目に飛び込んできた。続けて「同じ山口町にある公智神
社も“くち”神社と呼ぶのが正しく、“くち”は山口の口である(大意)」。微妙な間隔で「功地山」が2
つ描かれていたことを思い出す。
また、公智神社のHPには大化3年(647年)孝徳天皇有馬行幸の際、行宮造営の材木をこの神社の森
(天王山)から調達して建てたところその材の良さを大いに気に入られた帝より「功地山」の名を賜ったと
ある。

もう一度、天保7年の古地図を広げてみる(新しい天保版の方が情報量が多いため)。「功地山」には“ク
ムチ”と振り仮名が付いている。「クムチ(功地)」、「クチ(公智)」及びこの土地の豪族であった久々
智(ククチ)氏、神社の祭神であるククノチ神は総て同じ語源から変化した言葉ではないか。更にいえば、
ククノチ神は木の神であり、西宮が発祥といわれるクグツ(傀儡)も「木偶回し」というように木が関係し
ている。これらの解明は今後の課題・・・。

それはさておき、古地図である。「功地山」は有馬の弓場(ゆば)山の東隣に弓場山と同じくらいの大きさ
で描かれている。「弓場山」は今の射場山のことだとすぐ判る。両山の間には杉谷行宮(=孝徳帝滞在の行
宮の名前)址も記載され、この古地図では「功地山」は有馬にあるように描かれている。しかし山の“肩”
には下山口にある公智神社も描かれており、何ともいえない表現となっている。
古地図とはいっても絵図である。従って位置関係や距離が正確に記されているわけではない。同じ場所に紹
介する名所旧跡がたくさんあれば、実際以上のスペースを割いて紹介している。有馬は名所中の名所だから
周辺の山を動かしたり、川を蛇行させたりしてでも名所を書き込んで  不思議はない。

「功地山」は下山口にあるのか有馬にあるのか。否むしろ寛延元年の絵図に描かれているとおり「功地山」
は2つある、と考えれば矛盾は解決するのではないか。行宮建設用材を調達した山と行宮を建てた場所にあ
る山・・・。西宮と池田両方に呉織・漢織伝説があり染殿池があるように。

机上であれこれ推理を働かせていても埒があかない。百聞は一見にしかず。実際に自分の目で確かめるのが
一番。天気もいいので散歩がてら現地を訪ねることにする。


いつもよりゆっくり目に出発、まずは有馬に向かう。この順番で回った方がラクだからである。2週連続で
蓬莱峡を眺めながら有馬に向かうことになるとは思ってもみなかった。今日はロードだから速い。自宅から
40分ほどで有馬瑞宝寺谷に架かる杖捨橋に着く。

行宮が設けられた杉谷(あるいは杉ケ谷)は有馬温泉の各ホテルの住所から今話題の“かんぽの宿”の周辺
と割り出していたので地獄谷方面へ向かう。道を挟んで向かい側に有馬稲荷があるので立ち寄る。地元の自
治協議会が立てた説明板には『この神社は孝徳天皇が有馬温泉に行幸されたとき、杉ケ谷行宮の守護神とし
て祀られたのが始まりです・・・』と書かれてある。説明板はこのあと花の話題に変わる。本殿に行けばも
う少し情報が得られるかも知れない。
温泉街を眺める

急な石段を登る。すぐに階段はなだらかになり本殿前の境内に着く。有馬が一望できる。「標高570m」 と書かれているが、実際はそれほどない。何故なら533mの落葉山山頂にある妙見寺の方が高く見えるか らである。
有馬稲荷神社有馬稲荷と竜神さま

本殿下に『有馬稲荷と龍神さま』と題して神社の由来が記されている。冒頭「畏くも当神社は日本第一の神 霊泉有馬温泉功地山(射場山)の中ツ処に鎮座し・・・(以下略)」。 これによると「功地山」は射場山のことと記されている。射場山は有馬川沿いの温泉街からみると枝尾根の 関係で山が2つ重なっているように見える。間の谷は地獄谷。杉ケ谷は今の地獄谷。絵図にある弓場山と功 地山は共に射場山。どうやらこういうことらしい。 他に何か証拠が見つけられないか温泉街を南から北に向かって蛇行しながら下っていく。日曜の朝の8時半 なのでまだ閉まっているお店が多い。そんな中、ひさご屋という店のガラス戸に昭和初期の復刻版と思われ る有馬温泉観光案内絵図が貼り付けてあるのを見つける。
昭和初期?の観光案内絵図

ガラス戸に顔を近づけて有馬稲荷の描かれている個所を確認する。有馬稲荷の背後の山に「功地山」の文字 がある。有馬稲荷は1904年に今の場所に移っている。この観光絵図はそれ以降に作られたものである。 どうやら有馬では今の射場山が「功地山」と呼ばれていたことに間違いないようである。 結局有馬で1時間ほどうろつき、次の場所に移動する。本来一番最初に訪れるべき下山口の公智神社である。
公智神社

有馬から公智神社までは5kmほどの距離である。道を折れる場所を間違えて天上橋まで出てしまい、大回 りして神社に着く(8時40分)。 社殿は木造ではなく近代的な感じがする。境内に社歴を彫った石版がある。それによると、「正徳元年(1 097年)有馬川の大洪水により、天王山(功地山)の中腹から現在の場所に移った(以下略)」とある。 約900年前に同じ下山口の別の場所から移転してきたのか。 「天王山」とはどの山を指すのか。有馬川はどの方向へ氾濫したのか。山間部を流れる川だから氾濫する範 囲は知れている。手持ちの地形図で氾濫した方向を推理する。現在公智神社のある方は大丈夫だったのだか ら反対側が氾濫したということ。即ち“有馬川の右岸で且つ下山口村”と範囲を絞れば“今の北六甲台から 天上橋の辺り”ということになる。
天上橋交差点これが天上橋

天上橋。前から不思議に思っていたのだが、何故「天上橋」というのか。何があったから「天上」という名 前が付いたのか。「天王山」と「天上」は関連があるのか。天上橋の交差点に行く(8時55分)。これま で通過すること数百回、しかし天上橋を目当てに走ったことはこれが初めてである。 天上橋の交差点に立てば何が見えるか。交差点を写真に収めようとしてデジカメを構えながら気づく。古い コンクリート製の橋の向こうに広がるのは北六甲台の住宅地。今でこそ橋の向こうに道は続いていないが、 意味もなくただ橋だけが架かっている筈もない。宅地開発される前はこの橋の延長線上に公智神社があり、 北六甲台はなだらかな広がりを持つ山だったのではないか。 天上橋を渡り、北六甲台の住宅地を東へ上っていく。高度成長期に開発された住宅地を上って何の意味があ るのか自問自答をしながら行く。バス停の文字がふと眼にとまる。「天上公園前」。 え?ここに「天上」という名前が残っている?! 北に一区画折れたところに小さな公園がある。西に素晴 らしい眺望が広がる。まさに天上の気分。公園の中に入っていくと高さ1.5m×横3mくらいの大きな石 に「公智神社旧鎮座跡」と刻まれた記念石が置かれている。
公智神社旧鎮座跡

推理どおりの展開を喜ぶと共に、いきなり解答が出現したことに驚く。もっと早くに北六甲台を訪れていた ら、ここまで謎が深まることはなかったか。否、この公園の存在に気付かずに素通りしていたであろう。 647年に孝徳天皇が「功地山」の名を与えた「天王山」は「天上山」の誤まり(?)で、場所は今の北六 甲台だったということが判明した。 以上を整理すれば、「功地山」は今の北六甲台にあったなだらかな山を指す。有馬の射場山は長い年月の間 に行宮のあった場所の背後の山が「功地山」と誤って言い伝えられたものと推測される。 さて、その“本家”「功地山」は残っているのか。手持ちの地形図では東南隅に僅かながら山が残っている。 その手前まで走る。建設会社の資材置き場のフェンスが巡らされ入れない。山頂を目の前にして断念せざる を得ないのかと諦めかけた時、フェンスに切れ目を発見、踏跡らしきものが付いている(実際は踏み跡では なかったが)のを見つけ、ヤブの中に踏み込む。
功地山近景功地山山頂

適当に歩きやすい部分を5分ほど登り山頂に立つ(9時15分)。探し求めていた「功地山」山頂である( 地形図の320m等高線で囲まれているところ)。イノシシのヌタ場になっているだけで何の変哲もないヤ ブ山であるが、ここにたどり着けたことに格別の思いが募る。 再び道路まで下り(といっても標高差は20mほどしかないが)、空地の前の道路に座って汗をぬぐう。走 行距離こそ短いが今日は充実感が大きい。ここからなら30分もあれば自宅に帰りつけると思えば気はラク。 丸山方面の眺めがいい空地でバッグからチョコを取り出してひとかじりした。        (本日の走行距離 34km) 2009年3月7日(土)篠山/日置折り返し(2.5万図 福住) このところ近距離走が続いている。それなりにヒルクライムの練習にはなっているが、如何せん距離を走って いない。サイクリング・シーズンの到来も間近ということで、今日は標高差より距離に重点を置いた走りに出 かけることにする。 ルートは標高差の少ないR176回りで篠山の日置折り返し。大体これで110km程度の筈。 午前6時18分、雲がまだ取れきっていない、やや暗さが残る中をロードで出発する。走り出しから体が重く 感じられ足も回らない。おまけに北西の風が向かい風となって負荷をかけてくれる。赤坂峠を越えるといつも 道場までは35-45km/hで走れる快走区間も、今日は35km/hを出すのがやっとの状態。 北に向うにつれて風も北寄りに変わり、近年にない遅いスピードで古市-篠山口と走り継いで進行方向は東に。 横風区間に変わったことで若干息を吹き返し8時20分、篠山城大手前広場に着く。 朝から店先で焼き餅を焼いている。美味そうだ。だが今日はトレーニング走なのでお預け。“冷やかし”を終 えて再び走り出す。川沿いを東へ。弁天橋を南に折れ、左折してR372に。大銀杏の角を右折して日置に到 着(8時40分)。
日置地区旧跡マップ・・・さあ、どこへ行こうかな

旧372沿いに日置地区の旧跡案内図がある。先月はここから更に曽地奥に向かったが、今日はここまでなの で、久しぶりに雰囲気のある旧街道を通って磯宮神社境内にある裸榧を見に行く。幹回り4.5m、高さ25 mの大木。世界でただ1本の固い殻の無い実が生(な)る木、と足利尊氏の故事来歴を聞かされても遥か頭上 に生るので自身の目で確認することは出来ない。
短いけど趣の残る旧街道裸榧

次に堂山(250m)に向かう。小さな丸い独立丘である。案内図に「山」とあるからには一応登っておかね ばなるまい。でも、どこから取りついたらいいのか。村の中の細い道を進み、突き当たりの墓場に入って、墓 石の後ろから強引に倒木に摑まりながら攀じ登る。 もうすぐ頂上かというところで斜めに横切る山道に出る。何だ、いい道が付いているじゃないか。山道を20 秒も歩けば山頂である(8時55分)。
堂山遠景ちゃんと道が付いていた山頂は楕円の平坦地

頂上部は直径15~20mの楕円形の平坦地になっている。名前からしてここにお堂が立っていたのであろう。 そしてこの道はお堂へお参りする道ということであろう。しかし一段下がったところにも平坦地があり、もと もとはここに山城があったことが窺える。旧街道筋と100mも離れておらず、背後の寺山から天狗岩にかけ ての砦の最前線であったのであろう。でも今は“兵どもが夢のあと”である。 下山はきれいに付けられた道を歩いて下る。ロードをデポした墓場から20mほど東の地点に出てくる。もう 少し調べてから登ればよかったなと思いながらトレーニング後半スタート。 復路はほぼ同じルート。風ははじめ横風から南に進路を転換するに従って追い風へ。追い風に乗れば前半の“ 重さ”が嘘のよう。足は余裕で回って快走につぐ快走。緩斜面の上りも30km/hオーバー。全く“別人2 8号”の走りで帰りついた。        (本日の走行距離112km) 2009年3月15日(日)猪名川/杉生TT+嶋の大師山(2.5万図 木津) 今年に入ってからスピードが目立って遅くなっている。例年冬場は夏場に比べると遅いのだが、今年は1月中 旬に風邪をひいてからどうも体が重く、去年・一昨年の冬と比べてもかなり遅い。年齢といってしまえばそれ までだが、それにしても納得できる理由が考えつかない。 直前に予定が変わり、どうしようかと考えていたが、朝から天気もいいことだし、杉生まで個人(的)タイム トライアルに挑戦、どこまでタイムが出せるか試してみることにする。目標はこの時期(3月)の自身の平均 タイムである1時間13分。3日前に休みを取って走った時のタイムは1時間15分39秒、この時は100 km以上走っているので、少なくとも1時間13分台には収めたい。 今日は32.5km先の杉生までガンガン走るだけなのでデジカメなど不要なものをウェストバッグから出し て軽くして走る。 6時57分、ゆっくり目に食事を終えてスタートを切る。町内を出たところでちんたら走るクルマの後ろに入 ってしまい、引っ掛からなくてもいい信号に引っ掛かってR176に合流する1,5kmの間にいつもより約 30秒のビハインド・・・。先が思いやられる出だしである。 一度信号に引っ掛かりだすとタイミング悪く立て続けに引っ掛かるのは自転車も同じ。中山あたりまでストッ プ・アンド・ゴーの繰り返しとなる。それでも徐々に流れがよくなり、川西能勢口を回って県道を北上するあ たりから信号に引っ掛からなくなる。 いつもよりかなり速いスピードで10kmを通過、そういえば昔は結構頑張ってペダルを回していた記憶があ る。最近ちょっとラクして走っていたかも知れない。でもオーバーペース気味に走って30km持つのか・・・。 とにかく久しぶりにがむしゃらに走る。そのうちこれが今日のペースだと足が記憶したか、落ちることなく2 0kmを過ぎ、紫合の交差点も黄信号でクリアする。あと万善の信号を過ぎたらしばらく信号らしい信号はな い。 スピードを上げると当然のことながらトータルでは信号に引っ掛かる確率は減る。風も西寄りの横風であるが、 それほど気になることもなく30kmを通過、そのままのペースで杉生の交差点にゴールイン(8時11分)。 四つ角にあるコンビニの駐車場に自転車を止める。タイムは1時間10分30秒。夏場の好調時に匹敵するタ イム。何だ、真面目に走れば走れるじゃないか、どこか体の調子でも悪いのかと思っていたのでひと安心、紅 茶飲料で喉を潤す。 さて、このまま折り返して帰るには勿体ないほどのいい天気である。杉生周辺を軽く散歩、地蔵院、八坂神社 と巡り、村の中の道を南下していると右手に立派な神社があるのを見つけ寄り道をすることに。 春日神社とある(8時30分)。境内の西側に『大師山(うりぼう山)』と書かれた案内板を見つける。それ によるとこの神社の裏山は大師山と呼ばれ、ミニ四国霊場88か所巡りが出来るようになっているようだ。麓 の大島小学校の里山林として整備されているようで標高約300mの大師山の斜面一帯に石仏が祀ってあると いう。この辺りで石仏が多いといえば三田の小柿山(424m)だが、こんな近くにもミニ88か所巡りが出 来る山があるとは知らなかった。神社の裏手に「入山口」と書かれた案内標識に導かれて山に入る(8時40分)。 小学校の里山林だけによく整備された気持のいい雑木林の中に丁寧に木製の階段が付けられていてとても歩き やすい。歩き始めてすぐに石仏が現れる。 『天保8年丁酉旭祭 嶋大師講中』の文字が読める。今から170年ほど前に作られたようである。次々と現 れる石仏がまたいい。この小さな里山に合ったサイズで彫りもしっかりしており、素人目に見ても一体一体表 情の違いが見てとれる。 こんな里山林を持つ大島小学校の子どもたちが羨ましい。この状態を是非未来へ繋いで欲しいものである。 5分も歩けば里山林の最高地点に着く。『標高292m、大島小学校より98.4m高い所です』と書かれた 標識が立っている。山道は更に奥に続いているので入ってみる。すぐ奥に一段高くなった場所がある。ここが 大師山の山頂であろうか。道は踏跡程度ながら更に奥に続いている。398標高点を越えて、北谷池からの山 道と合流するようだ。 再び石仏の道に戻り、ぐるっと周って神社の東側に下りる。神社の裏山が霊場巡りとは変だが、これも廃仏棄 釈の名残だろう。思いもかけなかった石仏の山との遭遇。今更ながらデジカメを置いてきたことが悔やまれる が、また機会を改めて訪れたいものである。春風がさわやかに吹き抜ける嶋の集落。予想外の展開に心が少し 豊かになった思い。復路も快走。気持ちよく最後まで走りきることができた春の半日となった。        (本日の走行距離70km) 2009年3月21日(土)篠山/弓谷峠~太平山(2.5万図 村雲) 3連休の中日。今日は一日穏やかに晴れるというので、久しぶりにワンデー200km走でもやろうかとプラ ンを練っていたが、直前の風向き予報は午前中北寄りの風、午後から南西の風に変わるとのこと。これじゃ行 きも帰りも向かい風となりそうなので表記のコースに急遽変更する。自転車ツーリングは天気に加え風向きも 大きな要素であるところが山歩きと異なるところ。 午前5時59分自宅をロードで出発する。予想外の西風が吹いており、赤坂峠への上りから向かい風、春仕様 の恰好で出発したのに、夜間の放射冷却で峠の気温1℃、三田に入って0℃に下がり、篠山盆地に入るまで0 ℃の中の走行と結構ハードな走りとなる。 体を温めようと突っ込み気味に走ったおかげで2週間前よりも5分近く速いタイムで篠山城大手門前に着く( 7時53分)。ここで水分補給し一息入れて再スタート。黒岡-春日江-泉-松ケ鼻-小立と走ってR173 に合流し、向かい風と戦いながら藤坂で右折、弓谷峠に到着する(8時50分)。
弓谷峠

兵庫・京都の府県界である。この峠を挟んで東西に伸びる尾根筋は分水嶺でもある。京都側から峠越えをした ことは何度もあるが、南側から上ったのは初めてである。というのもどういうわけか、この弓谷峠の東側に広 がる山塊を登ったことが無いからである。 スポーツドリンクを大手前広場に置き忘れてきたことに気づく。まずいなあ。これから気温はぐんぐん上昇す るのに水なしとは・・・。支度をして太平山へ向かう。「たいらやま」と読む。R173と藤坂へ向かう県道 が分岐するあたりからみると稜線が「たいら」なので覚えやすい。 府県界の割には踏跡程度の道である。おまけに倒木も多い。昨日の雨で落ち葉の下に隠れている木でよく滑る。 既に足にきている身としては辛いものがある。最初のコブ(Ca370m)で北東に大きな太平山を見る。
370コブから太平山390コブから八ヶ尾

2つ目のコブ(Ca390m)は頂上部が完全なヤブなので少し北側を回り込んで通過、太平山との鞍部に下 りる。 朽ちかけた五輪塔が祀ってある。今の舗装路(弓谷峠)が出来る以前は、ここが南北の集落を結ぶ峠だったの かも知れない。 暑い。ウインドブレーカーを脱いで、頭もバンダナにする。太平山山頂めがけて一直線の激斜面登りが始まる。 地形図でみてわかるとおり、登る身にはどこを府県界が通っているのかわからない。方向だけを定めて、次々 現れる岩を巻きながら高みを目指す。 もういい加減参った頃に赤い留め置きテープが現れ、すぐに頂上に着く(9時32分)。登頂標が1枚架かっ ているだけの静かな山頂である。雑木に囲まれて展望は無い。急登の連続で大汗をかいたが水分補給が出来な い。結構やばい。
太平山山頂太平山から東へ尾根を歩く

ここからはほぼフラットな明瞭な尾根筋歩きが始まる。5分ほど東に向かって歩いていたが、この先の行程と 今日の気温を考えると水なしはかなりきつい。残念だが弓谷峠まで戻ることにする(9時50分)。 ところがこれまた曲者である。南西に下っていたつもりが若干西に振ってしまい、さきほどの鞍部の100m ほど北側に下る。やっぱりここが旧道だったのか幅1.5mほどの道が付いている。俄然探索心が出てこの道 を下ってみようと歩き出す。 ところが既に廃道になっているものとみえ、道だったと思われる所も細かいイバラ様の木が密生していて難渋 しそうな有様である。過去の経験からこういう廃道の方がふつうの藪より手強いことが多い。先を行くのを諦 め、再びバックして五輪塔のある鞍部に戻り、おとなしく来た道を引き返して弓谷峠に帰り着く(10時40 分)。 朝の寒さがうそのように暑くなっている。とにかく水分補給である。峠をカッ飛んで下り、4km先の小芋ま でを6分少々で走り自販機で喉を潤し“生き返る”。 幸い、まだ北寄りの風が吹いている。この風をどこまで味方につけられるか。途中のコンビニで食糧補給もし、 R176まで戻ったところあたりから南寄りの風に変わり始める。しかもクルマを風除けに使えない南東の風 である。 観念してR176を一路南下する。三田の市街地まで戻ってきたところで、横道からローディーが現れ、信号 待ちをしている私の目の前を通り過ぎていく。信号はすぐに青に変わり止む無く追撃の形になる。もう足は残 っていないので距離が縮まらないことを願いながら走るが、緩い上りになると距離が縮まってしまう。 道場の交差点でわざと信号に引っ掛かる。ローディーの姿がどんどん小さくなる。これで自分のペースで走れ るぞと思いながらリスタート。ところが日下部の交差点を過ぎたところで追いついてしまう。ここは北六甲台 に向かってずっと緩い上りが続いている。足は売り切れ状態だったので抜きたくはなかったが、一声かけて前 に出る。いつ抜き返されてもおかしくないようなスピードだったが、相手も向かい風に相当参っていたようで やがて後方に姿が見えなくなる。 北六甲台の前の坂を登り切った頃にはもう足がパンパン。あとは惰性で下るのみ。たとえ明日も晴れだと言わ れても“もう走れませ~ん”。        (本日の走行距離135km) 織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。

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