山を駈ける風になれ2011年 5月号
2011年4月2日(土)篠山/大手前広場~丸山水源地(2.5万図 宮田・村雲)
長かった今年の寒さもようやく緩み、今日は20℃近くになるという。期末期初で結構お疲れ
モードだが、せっかくの春の陽気を楽しまずして何とする。そんなわけで篠山まで軽く走りに
行くことに決める。
朝から暖かい。5時55分、春のいでたちで出発する。若干体はだるいものの思ったほど遅く
もないタイムで赤坂峠を通過する。下りに入ったのにスピードが上がらないのは弱い向い風に
なっているからか。それでも徐々にペースが戻り、7時55分篠山城址大手前広場に着く。
大手前広場周辺はさくらまつりの屋台の準備の真っ最中。しかし肝心の主役のサクラは無い。
そう簡単に日程の変更はできないのだろうが、果たしてこの状態でどれだけ人が集まるのか。
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さくらまつりにサクラなし |
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せっかくここまで来たのだからもう少し足を伸ばしてみることにする。とはいっても篠山盆地
はたいがい走りつくしている。唯一未走の地区と言ってもいい丸山地区まで黒岡川沿いを遡上
ることにする。
冷え込んでいた盆地の空気も8時を回ると日差しと共に徐々に暖かくなってきた。のんびりと
黒岡川の流れに沿うように北から北東へと進路を変えると知足の集落。そしてその奥が丸山地
区である。
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丸山地区 |
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堂々とした構えの家々が訪問者を迎えるように建っている。いい風景である。黒板の掲示板に
チョークで連絡事項と処世訓のようなものが書かれている。そういや久しく黒板にお目にかか
ったことがなかった・・・。
更に集落の中を進むと舗装路は終点になり、地道の林道が山の中に向かって続いている。ここ
は丸山側からの三嶽登山口のあるところである。
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芽吹きが美しい |
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水源地の堰堤に立つ(8時25分)。アオサギが水面を叩いて向こう岸に逃げていく。暫くする
と再び水面は鏡となり山に静寂が戻る。もうすぐ一斉に芽吹くのだろう。新芽が赤く大きく膨
らんで森全体が赤味を帯びている。
一服の清涼剤に癒されたところで再び黒岡川を南に下った。
(本日の走行距離112km)
2011年4月3日(日)宝塚自転車散歩/第5回山本界隈 (1万図 川西)
先月に続いて宝塚自転車散歩。第5回は植木の街として知られる山本地区を中心に紹介したい。
1.木接太夫彰徳碑
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木接太夫彰徳碑 |
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宝塚の山本地区を中心として伊丹にまたがる一帯は植木業が盛んで日本3大植木生産地に数え
られている地域である。宝塚の園芸は1000年の歴史を持つといわれるが、この碑は秀吉の朝
鮮出兵にも従軍した武将坂上頼泰が、隠居後山本の地で接ぎ木法を発明、秀吉から「木接太夫」
の称号を贈られた故事に因んで、大正元年に植木の街をアピールしようと建てたもので、山本地
区のシンボルとなっている。(今もこの地区で植木業をされている方に「坂上」さんは多い)
2.園芸マップ
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園芸MAP |
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そんなわけで園芸施設の主だったところに設置されているのが、この園芸マップである。昭和
7-8年頃は隣接の川西・伊丹地区を含め、年間1,100万本と全国一の生産量を誇った地域
産業であるが、阪神大震災後は園芸業者もかなり減り、跡地がマンションに変わったりしている。
それでもこのマップを見ると園芸業者は300以上もあるようである。
我々にとっては見慣れている風景も、初めてこの地を訪れた方にとっては、どの畑にも植木
が植わっているのは不思議に映るようである。
3.あいあいパーク
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あいあいパーク |
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正式には宝塚市立園芸振興センターという。阪神大震災で大きな被害が出たこの地区を整備、
もともとは溜池であった一部を埋め立てて園芸振興の拠点にしようと作られたのがこのあいあい
パークである。17世紀英国風の館を模して造られた建物は、ガーデニング関連のお店や雑貨店
が入っており、季節に応じていろんな園芸フェア・園芸講座が行われている。隣接のパン屋さん
のパンも美味しい。道路を挟んで南側も池を埋め立てて公園になっており住民の憩いの場になっ
ている。
4.平井の庚申塚
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平井の庚申塚 |
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ここで一旦平井地区に移動する。平井山荘入口に祀られているのが、この庚申塚である。前回
紹介した安倉地区のものよりもずいぶんと大きい。「青面金剛」の文字の横に元禄16年の銘が
はっきりと読める。村の入口に設置されることが多い庚申塚だが、300年前はここが山本村の
東の入口にあたっていたのかも知れない。
5.松尾神社
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松尾神社 |
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再び山本に戻ってくる。祭神は征夷大将軍坂上田村麻呂。清和源氏の祖、源満仲が田村麻呂の子
孫で坂上党武家団の頭領、坂上頼次にこの山本郷を与え治めさせたのが坂上党と山本郷とのつな
がりの始め。頼次の子孫の季猛(すえたけ)が祖先を祀って建てたのが松尾神社の始まりと言われ
る。「松尾」は田村麻呂の幼名が「松尾丸」であったことから付けられたものと推測される。季
猛は御存じ頼光四天王の一人である。坂田金時の墓もお隣の満願寺にあり、まさに1000年前
は、この地一帯は多田源氏の一大拠点であったことが窺われよう。(先に紹介した「木接太夫」
の坂上頼泰も頼次の子孫)
6.泉流寺
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泉流寺 |
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園芸流通センターや大規模園芸場の近くにある小さなお寺である。加賀前田家に縁のあるお寺
らしいが詳しいことは知らない。本尊の十一面観音は別名「眠り観音」と呼ばれており、眠りに
関する悩みに効くという。
7.山本の庚申塔
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山本の庚申塔 |
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山本中一丁目、正念寺の斜め向かい、巡礼道沿いにある。昭和63年に移設したと説明板にある
が、いずれにせよ山本郷の西の入口にあたるこの付近にあったのであろう。これも元禄16年に
建てられたものだという。堂内は暗くてよく見えないが「青面金剛」の文字が読み取れた。先の
平井のものと対で作られたのかも知れない。
(本日の走行距離 19km)
2011年4月17日(日)宝塚自転車散歩/第6回仁川~小林界隈 (1万図 甲山)
宝塚自転車散歩。第6回は旧武庫郡良元村、阪急今津線仁川駅から逆瀬川駅沿線を紹介したい。
(古い写真は『ふるさとの思い出 写真集 宝塚 -明治・大正・昭和』図書刊行会 を使わせて
頂きました)
1.川西航空機宝塚製作所と阪神競馬場
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昭和15年、川西航空機宝塚製作所 |
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今は阪神競馬場に |
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ミリタリーファンでなくても紫電改の名前はご存知だろう。旧日本帝国海軍の名機である。我
々世代にとっては『紫電改のタカ』という漫画の方に馴染みがあるが、その紫電改を作っていたの
が川西航空機である。この宝塚製作所は昭和15年に建設され操業、昭和20年7月24日の空襲
で壊滅する。
川西航空機は戦後新明和工業として再生し、特装車両や救難飛行艇などを作っていることは誰
でも知っているくらい地元では有名な企業である。今も当時の敷地の一角にあるが、敷地の大半は、
阪神競馬場となっている。阪神競馬場は昭和24年、西宮の鳴尾にあった2つの競馬場をこの地に
移したもので、桜花賞、宝塚記念などのG1レースも行われている。地元民にとっては競馬場開催の
日は付近の道路が渋滞して結構大変である。
2.駒の町
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駒の町 |
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競馬場があるから「駒の町」。ちなみに阪神競馬場の住所は「駒の町1丁目」である。先の新明和
工業の住所は「新明和町」。宝塚にはこのような地名がいくつかある。市役所のある「東洋町」も、
東洋ベアリングの工場があったことから付けられた町名である。新しい町は新しいなりにそれなり
の意味を持った名前が付けられている。平成の大合併で誕生した新しい市町村名の味気なさはどう
だろうか。
3.鹿塩駅
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鹿塩踏切 |
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戦時中、川西航空機に労働者を運ぶために、仁川駅と小林駅の間に鹿塩駅という臨時の駅が存在
した。その鹿塩駅があったのがこの踏切辺りと言われている。この駅から関学・女学院・聖和の学
生や朝鮮人労働者が工場に向かっていたという。当時の痕跡は何も残っていない。
4.鹿塩熊野神社
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鹿塩熊野神社 |
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鹿塩にはその地名の由来となった悲しい夫婦鹿の伝説がある。ここでは割愛するが、その伝説に出
てくる「鹿の一里塚」「鹿の鏡井戸」と呼ばれる場所がどこであったかは不明である。鹿塩地区も
住宅地化し、当時の雰囲気を残すのはこの熊野神社だけとなってしまった。
5.小林(おばやし)
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昭和25年頃の小林の農村風景 |
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現在の小林の風景 |
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稲の刈り取りが終わった後の風景である。昔はどこもこんな風景が広がっていたものである。こ
の写真の場所がどこで、どっちの方角を向いて撮ったものか一切不明(西を向いて撮ったものでない
ことくらいしかわからない)なので、変貌ぶりを伝えようと高台から東方向を撮ってみた。大都市近
郊ではどこもこのような変化を遂げたともいえる。
6.逆瀬川駅前踏切
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大正末期の逆瀬川駅前踏切 | 現在の逆瀬川駅前踏切 |
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大正10年阪急西宝線が開通したが、当時の逆瀬川駅付近の踏切から北西方向を撮った写真である。
逆瀬川の護岸工事はされているようであるが、川の向こうに家が2軒見えるだけで何もない。宝塚ゴ
ルフ場は今もあるが、当時は乗馬倶楽部もあったことがうかがえる。
(本日の走行距離 80km)
(天気がいいのでこのあと西谷地区まで周回走を楽しむ。)
2011年4月29日(金)篠山・瑞穂/高ツク山~弓谷峠周回(2.5万図 村雲)
GW3連休前半の初日、以前から計画しながらなかなか実行に移せなかった旧西紀町と旧瑞穂町の境に
ある高ツク山を訪ねる。登路を山頂まで一番お手軽に行けそうな山頂の東南東500mの曽我屋敷林
道終点に求めたが思わぬハプニングの山行となった。
昨日の雨で空気がまた入れ替わり寒い朝となった。午前5時38分スタート。ここのところお疲れ気
味で体が重い。気力だけでは何ともならないが、まあ今日は140km以上の長丁場になるのでテン
ポで行くことにする。
スタートしてすぐに武田尾方面から霧が流れてきているのが見える。今日は長い間霧の中の走行を強
いられそうだ。
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鼓峠下り |
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案の定、北六甲台に入るや白い世界に突入する。気温も4℃まで下がる。こうなるとグローブに着い
た水滴が霜に変わる理科の実験を走りながら体感することができる。古市で水分補給をし、栗柄峠-
鼓峠と分水嶺の連続越えで北に下る。ようやく霧が晴れてきた。気温も急上昇の予感の中、草山温泉
から鎌谷奥の峠に到着する(8時30分)。
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ここを右に折れて林道を行きます |
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峠を京都府側に入ったところに南に伸びる林道がある。曽我屋敷林道である。残念ながら地道の林道
で「押し」て行く。1kmほど行ったところで府県界尾根の最も低い地点が現れる。「ヨキ峠」とい
うらしい。「ヨキ」とはどういう意味だろう。「斧」のことだろうか。いかん、どうも発想が横溝正
史に行ってしまう(犬神家の家宝)。
更に200mほど進むと簡易水道の施設が現れる。この手前に「手の平」を拡げたような谷地形にな
っているところがある。ここが取り付き場所と決めたところである。ロードをデポし歩きにかかる(8
時55分)。
山の南側に回り込んで山頂を目指すことにするも、早く回り込み過ぎて激斜面と格闘、南のCa360
コブに登ってしまう。北西方向に更に高い山が見えるので間違えたことはすぐにわかる。府県界は切
り開きなど一切ない。転がるように激斜面を下り、Ca340鞍部から再び登り返すと今度は結構明白
な踏跡が現れる。
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岩尾根が続く山頂南側 | この展望が望めただけで満足 |
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しかしそれもつかの間で、今度はちょっとした岩尾根が連続するようになる。兵庫県側に切れ落ちて
凄い高度感がある。大きな露岩を登って振り返れば、小金ケ嶽から三嶽の大パノラマが楽しめる。こ
の景色が見れただけで今日の山行は満足である。
露岩から山頂はすぐの距離である。雑木をかき分けて登ると3等三角点のある山頂に着く(9時26分
)。415.0m点名「本郷」である。その名のとおり本郷側からは踏跡が上がってきている。
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高ツク山山頂 |
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わずかな距離の山歩きだが汗だくである。三角点に腰を下ろし休憩する。野鳥の囀り、キツツキの音、
風の声・・・すべてに春を感じる瞬間である。3等三角点のある山なのに登頂標の類は一切なし、途
中にも留め置きテープなどもなく久しぶりに自分だけの山歩きができた気分である。
しばらく休憩して下山にかかる。Ca340m鞍部まで戻ろうと慎重に辿っていたが、景色に目を奪わ
れて写真を撮っているうちに、どうしたわけか北へ谷を下ってしまい気が付けば山頂から真北に向か
う破線の谷を下っている。今更戻るのも面倒くさいと林道を歩くが、これがまた長い。
いい加減林道歩きに疲れてきたところで1軒の民家の前に出る。と、その民家越しに大きな金色の観
音像が見えるではないか。変な宗教施設の敷地内にでも入ったのか、と思いながらふと「あれは草山
温泉の観音湯に立ってる像だ」ということに気づき、ホッとするやら、もう一度鎌谷奥の峠まで車道
を歩くことを思い疲れるやら。結局7km少しの林道歩きを1時間10分かけてデポ地に戻る(10時
57分)。
このまま地道の峠を越えて川阪に出ようかとも思ったが、予想外の歩きで足に余裕なく、藤坂峠の激
坂を敬遠して当初予定通り鎌谷中から弓谷峠を越えて(11時41分)R173を南下する。雨が降っ
てきたので細工所のコンビニで昼食兼休憩(12時02分)。
あとはマイペース。意外と足に余裕もあり150km近い走りをこなして15時前に帰りついた。
(本日の走行距離149km)
織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。
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