山を駈ける風になれ2011年 6月号

 
2011年4月30日(土)宝塚自転車散歩/第7回巡礼道界隈 (1万図 宝塚)
第7回は中山から御殿山まで巡礼道沿いで見つけたものを紹介したい。中山寺・売布神社・清
荒神といった有名寺社については、この自転車散歩で採り上げるまでもない題材なので省略さ
せて頂く。(古い写真は『ふるさとの思い出 写真集 宝塚 -明治・大正・昭和』図書刊行
会 を使わせて頂きました) (8.については5月15日に再訪)

1.中山荘園古墳
中山荘園古墳

    昭和57年マンション建設中に発見された古墳。そのせいでマンションは当初計画より縮 小されたとか。名前は中山荘園だが実際は売布に近い。標高73mの南向きの高台にあって眺 めがいい。宝塚で唯一の国指定史跡。周囲を石で囲んだ八角形の古墳で古墳時代終末期のもの と言われる。    2.冬花庵
冬花庵

  大正11年、日本画家の橋本関雪が別邸として取得したもので、2,800坪の敷地に回遊式 庭園や茶室、鐘楼などが配置されている。なかでも三重塔は伊賀上野の浄瑠璃時から移設した ものと言われている。今は管理地となっているようである。 3.龍の道
龍の道

    阪急清荒神駅前から清荒神まで約1.2km、ゆるやかにくねる坂道は「龍の道」の愛称 が付いている。2代目桂春団冶はここに「春団冶茶屋」を出していたという。今も参道の両脇 に土産物屋や仏具店・古道具屋などが連なっており古き良き門前町の風情が楽しめる。 斜度は大したことないので自転車でも簡単に上れるが参拝客の少ない早朝以外は迷惑になるの でやめよう。むしろゆっくり歩きながら参道の両側のお店を冷やかしながらいくのがいい。美 味しいお土産も多い。 4.川面橋
川面橋とサクラ

  荒神川に架かる小さな橋である。誰も顧みないような橋だが、橋のたもとの老桜が満開を迎え る頃は見事である。橋には「橋の名前」「川の名前」の他に「架橋年月」が刻まれている。こ の橋には「昭和3年」の年号が刻まれている。石灯籠や道標と違いクルマも通行するなど常に 使用される橋である。阪神大震災以前には旧温泉街に大正の年号が刻まれた橋もあったが、現 役の橋としては市内でも最も古い部類に属するのではないだろうか。(この写真は4月9日に 撮影) 5.宝の塚
私邸にあった頃の塚移設後現在の塚

    元禄14年に刊行された『摂陽群談』にある宝塚の伝承(米谷村にある「宝の塚」の付近 で物を拾うと幸運が訪れる)にちなんで宝塚と呼ばれた御殿山の小高い丘に住んでいた小林英 次氏が昭和35年頃、当時の宝塚市長に揮毫を依頼して建立したものである。今はURの住宅 に変わって道路脇に移設されている。 尚、宝塚の名前の起源になったといわれる塚は宝梅園にもある。 6.手塚治虫昆虫採集の森
手塚治虫昆虫採集の森

    「御殿山」といえば語らずにおれないのが手塚治虫である。氏は5歳から23歳までをこ の地で過ごした。昆虫採集が大好きだった話は有名であるが、この千吉神社の森が遊び場だっ たらしい。ここで昆虫の一生の短いことを知り命の大切さを学んだと、何故か神社の年中行事 の最後に書かれている。この森の素晴らしいことは写真で見てもわかるとおり、歩いてしか行 けないところにある。それにしても子供の頃昆虫採集した森に記念碑ができるあたり、さすが としかいいようがない。 7.元造り酒屋 岡田家
元造り酒屋 岡田家

 有馬街道沿い荒神川を渡った北側に白いタイル張りの大きなお屋敷がある。元造り酒屋 の岡田家である。間口も大きいが隣家が工事中でふだん窺い知ることができない奥行の大きさ もわかろうかと思う。江戸時代川面地区ではこの街道沿いに「岡田家」「酒谷家」「北家」の 3軒の造り酒屋と、秀吉が小浜の豪摂寺に宿泊した折に賞味したという「川面の水飴」(飴屋) があり、豊富で良質な伏流水と地下水が存在していたようである。(大垣文男『天明8(178 8)年の巡見使道を辿る』宝塚市教育委員会編)  5月15日再訪 加筆 8.宝塚鉱泉
ぶどう池ぶどう池南側の空き地

  近代宝塚の成立の重要ファクターは「歌劇」と「温泉」であることは疑う余地のないとこ ろである。しかしこれらと並ぶファクターに「鉱泉」すなわち「サイダー」があったことを忘 れてはいけない。 「鹹(しおから)い水」と「酸い水」が湧き出す霊泉と言われた小林の湯(旧温泉付近)。「鹹い 水」とは塩分を多く含んだ温泉であり、「酸い水」とは六甲一帯から能勢にかけて湧出が見ら れた鉱泉のことである。大正から昭和初期にかけては布引、有馬、ウヰルキンソン、平野三ツ 矢などで作られたサイダーが神戸から植民地に輸出されたとの記述がある。その中の一つに宝 塚鉱泉があった。    宝塚鉱泉(商品名は「タカラサイダー」、後に「タカラレモン」も発売)であるが、どこにあ っていつ頃からいつ頃まで製造していたのか未解明の部分が多い会社である。最近の調査では 明治42年に設立され、当初会社は今のソリオのマンション付近にあり、大正の終わり頃に上 の写真の場所に移り、営業時期は不明ながら工場自体は昭和30年代まであったことがわかっ てきた。(川島智生『大正期・宝塚鉱泉株式会社の建築と摸範職工団について』宝塚市教育委 員会)   その写真の場所であるが、小浜から有馬街道(川面街道)を生瀬に向かうと右手にぶどう 池が現れる(写真左)。この池と街道を挟んで向かい側の空き地にあった(写真右)。宝鉱泉 という名前の会社もあるが、どうやら同じ会社のようである、と先の研究論文には書かれてい る。   タカラサイダーは昭和初期の宝塚八景の絵ハガキ『千歳橋』にも工場の煙突が写り込んで おり、その位置関係からもこの場所で間違いないことがということがわかる。(千歳橋=かつ て今の宝来橋の上流600mのところ、「愛の松原」と「見返り岩」(共に第1回宝塚自転車 散歩を参照されたい)を結んで架けられていた橋。昭和20年の阿久根台風で流失)   古い神戸の山歩きの本などを読むと、裏六甲の沢で天然の炭酸水をコップで掬い、砂糖を 混ぜて飲んだ等という記述も見られる。近代宝塚成立の大きな支えになった天然の炭酸水を一 度飲んでみたかったと思うのは私だけであろうか。 (本日の走行距離 11km) 2011年5月4日(水)八木/諸木山(2.5万図 殿田) GWの後半は前回の高ツク山に続き、これまた長い間計画には上っていながら実行に移す機会が 無かった木喰仏で有名な清源寺(旧八木町・現南丹市)の背後に連なる諸木山を訪ねることに。 当初は能勢から連続峠越えで亀岡に向かう予定だったが、昨日映画館を出る時に膝を捻った痛 みが治まらず、R423から一気に亀岡に下るコースに変更する。 どのくらいのペースで走れるか解らないので少し早目の午前5時19分にスタートする。弱い ながら向い風が吹いている。自転車は体重をサドル、ペダル、ハンドルに分散できるので痛み はあまり気にならない。余野までの上りも例年のこの時季に比べて2-3分遅い程度。とはい うものの原因の大半は向い風。 一気に下って亀岡へ。GWだというのにガラガラのR9を北上し、月読橋で右折、桂川沿いの 快適な道路を北上して清源寺分岐に着く(7時38分)。
桂川沿いの快走路を走る。正面諸木山清源寺分岐

予定の登山ルートは清源寺西側の尾根筋の破線路。実際は標高460mにある卍マークまで3 m幅の林道が付いているという事前情報を得ていたので、ヒザに負担をかけずに登れる。 と思って行くと「作業用林道に付き関係者以外立入禁止」の札が立ち、入口は鉄製の扉に鍵が 掛けられている。まずいな。地形図を広げてルートを検討、清源寺の東500mにある実線の 林道に取りあえず向う。
林道を行きます

  林道入口に『愛宕』と彫られた石柱が立っている。この道は山頂まで続いているのか?と思っ て進むとすぐに扉の閉まったフェンスが現れる。閉まってはいるが鍵は掛かっていない。扉を 開けて中にロードを入れて再び丁寧に閉め、ロードをフェンス横にデポ、登りにかかる (7時53分)。 幅のある林道を行く。すぐに分岐が現れる。ここは右へ。また同じ道幅の分岐が現れる。地形 図の林道は左だが、このまま進むと最後は谷間の激登りになりそうなので右の道を選択する。 鉄製の扉が閉まっているが、横から入れるので全く問題はない。
名残のサクラを楽しむ尾根筋に出ました

クルマの轍が残っており歩きやすい。地形図に無い道なのでいつ終点になるのか心配しながら 進むが、やがて谷の東の尾根に乗り、見晴らしもよくなって正面に山頂南東のCa490コブ が間近に見えるようになる。名残のサクラを愛でたり、春霞の京都愛宕山を眺めたりしながら、 つづら折りの林道を登っていくうちにCa490コブに着いてしまう(8時30分)。
京都愛宕山もよく見えますCa490コブまで林道が続いてます

いつもなら無理やり切り開いた味気ない林道などごめんだが、今日はラクに頂上付近まで歩か せてもらったことに感謝である。ここまでくれば山頂と標高差も殆どない。おまけに林道は西 に向かって続いている。 え?!まさか・・・と思ったが、林道はものの30mも歩いたところでジ・エンド。その先は 尾根筋に付いている踏跡を行くいつもの山歩きが始まる。結構アップダウンがあって登りつい たことが山頂である(8時42分)。
山頂手前から微笑みの里の眺め諸木山山頂

山頂北側は東西にネットが張り巡らされ、北側が伐採されている。3等三角点はネットの前。 登頂標などは伐採された時に一緒に片づけられたか、一枚も架かっておらず新鮮な気分を味わ える。展望はいいとはいえないが、樹幹越しに水が張られた田が南に広がっているのが見える。 まさに日本の春である。
ホームグラウンドの園部にて

  山頂で憩ったあとはゆっくり下山。園部まで北上し、いつもの周回コースに入れば待望の追い 風。春風を背に受けて走ればすっかり足の痛みも忘れて快走の連続。気が付けば55kmノン ストップで帰宅していた。    (本日の走行距離116km) 2011年5月7日(土)宝塚自転車散歩/第8回西谷地区 (2.5万図 武田尾、木津) 宝塚自転車散歩。第8回は宝塚市北部、市域の3分の2の面積を占める西谷地区を紹介するこ ととしたい。とはいえ20年来のサイクルフィールドで、MTBで巡った山の数は数えきれないほ ど。さて何が残っているやら・・・。 上佐曽利にある某ヤブ山に登ろうと、能勢のかいもり峠-稲荷坂-中山峠-笹尾峠と峠の連続 後えで現地に向かったが、登り口は見つけたものの到達できず、急遽宝塚自転車散歩に切り替 えました(古い写真は『ふるさとの思い出 写真集 宝塚 -明治・大正・昭和』図書刊行会  を使わせて頂きました)。 1.鬼頭常太郎頌徳碑
鬼頭常太郎頌徳碑

      まずは最北部、上佐曽利から。この頌徳碑は上佐曽利の公民館前広場入口横にある。佐曽 利地区は日本一のダリア球根生産地である。この地区でダリアの生産が始まったのは昭和5年。 愛知県出身東京在住の鬼頭常太郎がダリアの新品種を佐曽利園芸組合に伝えたのが始まりで、 戦後は佐曽利に移住し新品種の作出と挿芽繁殖法や球根販売の基本を教えたと碑文に記されて いる。10月になると佐曽利地区のあちこちでダリアの花摘み園が開かれ、「ダリア花まつり」 が催されている。    2.西谷小学校佐曽利分校
西谷小学校佐曽利分校今は上佐曽利公民館

明治31年に西谷小学校の分校として設立された。廃校は昭和32年。文教場というひびきが ぴったりの写真である。北摂には今もこのような建物があちこちに残っているが、この分校は 現存せず、上佐曽利の公民館になっていた。背後の稜線の上に頭を覗かせている山は寺山。 3.廃・香炉寺
香櫨寺跡 (下佐曽利分団)

      『春はむめ(梅) 秋はまがきに白菊の 花もにほひや まさるこうろじ』  と、摂州太田庄奥三拾三処順礼歌に歌われた香炉寺が在った場所は今、消防団の下佐曽利分 団と変わっている。道路に面して石段があり、両脇に村人が奉納した石燈籠が立っている。銘 を見ると宝暦6年とあるから250年ほど前はお寺があったことがわかる。境内の跡と思しき 片隅には石仏も残っている。明治の廃仏稀釈で壊されたのだろうか、尼寺であったとも言われ る香炉寺。山村の原風景のような西谷ではあるが、個別に見ていくと変遷の歴史を積み重ねて いることがわかる。 4.千本鉱山
千本鉱山跡(旭国際GC)千本口BS

ゴルフ場の写真が撮りたかったわけではない。かつてここに千本鉱山という銅鉱山があった。 猪名川の多田銀山とも近いこの付近から能勢にかけていくつか鉱山があったことが知られてい る。この銀銅山に目をつけて多田に移り住み、力を蓄えたのが清和源氏の祖、源満仲である。 室町時代になって本格的な採掘がはじまった千本鉱山には、千本間歩と呼ばれる坑道が開かれ、 数百軒の鉱民が住んでいたという。一時中断の後16世紀後半から再開、江戸初期にかけてが もっとも隆盛を極めたようである。 当時の千本鉱山の賑わいぶりは大正5年、東仲覚太郎が作った『西谷郷土誌唱歌』にも歌われ ている。21番まである長い歌の11番に次のようにある。 長谷村は 古の 三蔵城主の ひらきたる 千本鉱山 今も尚 盛んに銅を 掘り出せり (西谷地区まちづくり協議会発行「山あいの村に育つ」より) この歌がどのくらい歌われたのかは知らない。ただ明治末期から大正初期にかけての西谷の人 々の暮らしぶり、村の様子がよくわかる「郷土誌」唱歌である。 (本日の走行距離 78km) 2011年5月14日(土)北摂/西半周周回+長谷竜王山(2.5万図 武田尾) 3日間降り続いた雨も昨日上がり、今日は絶好のサイクリング日和となった。久しぶりにいつも のトレーニングコースを走って西谷地区の未踏の低山を訪ねることにする。 午前5時24分スタート。年々出発時間が早くなっているのは年のせいか。やや強めの西風が吹 いている。そのお蔭で川西までは快走。余勢をかって前方を走るサイクリストをかわして先週よ りも4分速いタイムで杉生に到着する。 今日はサイクリストが多い。もともと季節がいいこの時季はサイクリストが多いのだが、例年の この時季と比べても多い。エコや健康志向の高まりは結構なことだ。くれぐれも交通ルールだけ はしっかり守って走行をお願いしたい。 サイクリングに絶好の季節とはいっても、私のように半袖ジャージ1枚で走ると気温8℃の杉生 新田から能勢天王間は肌寒い。気合もろとも羽束川沿いの道を下り抜けると小柿の集落。道端の 田んぼの土手の上で休憩中(?)のキジと目が合う。 あまりに唐突でキジ君も無防備な状態、ロードを停めて近寄っていっても逃げようとしない。せ っかくだから記念に写真に収めるかとデジカメを取り出しかけたところで走って田んぼの奥の茂 みに隠れてしまった。残念。
長谷竜王山遠景

    木器から香下峠と回って西谷地区に入り、長谷に着く(8時38分)。長谷竜王山(279m) の登り口を探して山頂真北の方角から村の中の道を山に向かって進むと、民家の門口に突き当り そうになるが、山の方に向かって踏跡が付いている(8時40分)。 長年の低山歩きのカンとでも言おうか。踏跡は溜池横から村人の手でしっかり掘られた参道へと 変わっていく。もうこれで黙って参道を登れば長谷竜王山の山頂である(8時45分)。
参道はしっかり人の手で掘られている鳥居と祠のある山頂

山頂は鳥居があり、奥に祠が祀られている。参道の歩きやすさといい(雨の後で滑りやすい部分 はあるが)、今でも村人が訪れているようである。 それにしても「竜王山」という名の山が多い地区である。南1kmには地形図にも名前が載って いる竜王山(365.6m)があり、南西へ2.5kmの境野には西部竜王山、波豆竜王山があ る。この地区はちいさな溜池しかなく、その昔は水の確保が大変だったことを、これらの山の名 前が物語っている。 登り口を見つけるのに時間がかかるのではと思っていたのに、一発で見つかって、片道5分の登 山となり、あっという間の低山散策。途中、寄り道をしながら帰宅しても、まだ10時を回った ところであった。    (本日の走行距離105km) 織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。

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