山を駈ける風になれ2011年 7月号
2011年6月4日(土)八木/京都帝釈天~奥の院(2.5万図 殿田)
先月に続いて南丹市八木町の諸木山山系を訪ねる。寛政11年『丹波国図』を見ると「帝釈山」
という名前が記されている。どうやら今の諸木山を指すようなのだが、そもそも「帝釈山」の
呼び名が付いたのは中腹に帝釈天を祀ったお堂があることに由来している。
その京都帝釈天から破線路を辿り、千谷峠まで歩いてみようとプランニング、午前5時06分
ロードで出発する。
朝の気温20℃。やや湿度は高いものの1ヶ月前に比べると格段に筋肉の動きがいい。木部から
R423を余野川沿いに余野までの上りも所要時間にして5分も早く自己最速ペース。余野で水
分補給をしていると同好の士が亀岡方面に走っていく。朝の6時に余野まで駆け上がってきた
だけあって結構なスピードだ。
こちらもひと息入れて追走する。交通量も殆どなくご機嫌な走りが出来る。やまあそさんの名
前のような会社の前を過ぎるとつづら折りの下り、あっと言う間にR9に合流すれば月読橋ま
で北上、月読橋を渡って堤防沿いを北上すれば、もう京都帝釈天の参道入り口である(7時13分)。
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参道入り口 |
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標識に沿って民家の間を右に曲がるといきなり激坂の”本当の”参道入り口が現れる。あまり
の唐突な出現にギアを落とす余裕もなく、路面が荒れているのをいいことに「押し」に徹して
帝釈天まで上る。
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合掌しながらくぐると御利益があるらしい |
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1kmほどで京都帝釈天に着く(7時28分)。金属製の茅の輪があって合掌しながらくぐって
お参りを済ませ、奥の院から尾根伝い歩きにかかる。沢で鳴くアカガエルの合唱がこだます森
の中を登ること2-3分で奥の院に着く。
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奥の院 |
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そこからは踏跡があったり無かったり、先週の台風崩れの低気圧や伐採のせいで枝が散乱した
歩きにくいポイントが続く。植林のために斜面を伐採したポイントを過ぎると歩きやすい径が
現れる。シカ除けネットの扉を開け閉めしながら尾根筋を進むと、新しい道標が現れる。
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突然現れる新しい石標 |
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ハイカー向けでもなし、今この道を生活で使う人もなし、何のための道標か、”どう評価“し
たらいいのか悩むところ。進行方向が北に向かえばやがて376標高点に達する(8時05分)。
このまま千谷峠まで順調にいけるか。何の木だろう。深山で人知れず満開の時を迎えている。
華やいだ気分にホッとしたのも束の間、突然踏跡が判然としなくなる。
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376標高点 | ここまではよかったのだが・・・ |
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シカ除けネット伝いに歩いていたので踏跡が分断されていつしか道を外れる、ということはよ
くあること。軌道修正を試みるが、本来の峠へ向かうと思われるポイントにも踏跡らしきもの
は見当たらない。
さりとて強引に麓までヤブ漕ぎするには距離があり過ぎる。おまけに半袖半パンなのでちょっ
と辛い。8時20分、仕方なく引き返す。9時過ぎには府道まで下る。このまま帰るのは残念
だ。千谷峠から下り着く変電所横の林道をチェックしながら、船岡回りで帰路についた。
(本日の走行距離119km)
2011年6月19日(日)宝塚自転車散歩/最終回宝塚駅~大劇場界隈
(1万図 宝塚)
宝塚自転車散歩も今回で最終回を迎えることとなりました。締めくくりはやはり何と言っても
「歌劇と湯の街」宝塚を代表する宝塚大劇場界隈を取り上げることにしたいと思います。この
宝塚自転車散歩シリーズを連載中に宝塚学検定を受験、古いしきたりの文化の上に人工的に作
られた西洋文化が重なる宝塚独特の「文化の二層構造」などまだまだ興味の種の尽きない町で
すが、一旦これにて最終回とさせて頂きます。
確か家のどこかに昭和40年代前半出版の市街地図があった筈。再開時は40数年前の地図を
持って散策するのも楽しいかも知れない(古い写真は『ふるさとの思い出 写真集 宝塚 -
明治・大正・昭和』図書刊行会 を使わせて頂きました)。
1.宝塚駅
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明治30年阪鶴鉄道宝塚駅 | 昭和期の国鉄宝塚駅 | 現在のJR宝塚駅
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宝塚に初めて鉄道が通ったのは明治30年である。大阪から舞鶴を目指して鉄道の敷設が
始まり、明治32年福知山まで完成したが、京都から舞鶴に至る京都鉄道と競合、阪鶴鉄道は
福知山止まりとなり、後に明治40年に政府に買収されて官営福知山線となる。写真は開業間
もない頃の宝塚駅である。
2枚目の写真は旧国鉄宝塚駅舎である。いつの頃のものか不明であるが、駅舎横の電話ボ
ックスから昭和30年代かと推測される。隣に建物が増設されたりして様子は変わったものの、
この建物自体は今の駅舎に変わる2年前まで使われていた。
3枚目の写真は今の宝塚駅舎である。平成22年に完成、南側の阪急宝塚駅と道路をまた
ぐ通路で繋がった。駅舎の外壁の色目も阪急と合わせ、花のみちセルカから大劇場まで統一感
のある街並を形成している。駅前ロータリーは一部まだ工事中であるが、国際観光都市宝塚の
顔として整ってきた感がある。
2.花のみち
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昭和25年頃の花のみち | 現在の花のみち |
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道の両側は震災で大きく変わったが、こと「花のみち」に関しては(特に西側入口付近は)
昔の面影をよく残している。何十年ぶりかで宝塚に来られた方も、入口にある写真の「花のみ
ち」の灯篭(?)を見て懐かしいと思われるに違いない。このシリーズをやってきて思ったの
は50年も経てばすっかり街の様子は変わるということ。このように社寺以外で60年前の風
景をとどめていることに感動する。
3.宝塚新温泉入口
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大正時代の宝塚新温泉入口 | 今の様子 |
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明治43年に箕面有馬電気鉄道を開業した小林一三は宝塚に人を引っ張るため、翌年武庫川
左岸の未開の土地に大理石造りの大浴場を備えたモダンな大温泉場を開業、右岸の旧温泉に対
して「宝塚新温泉」と呼ばれた。大正3年に宝塚少女歌劇、同13年には動物園、昆虫館、映
画館も備えたルナパークを開園(後の宝塚ファミリーランド)し、一大レジャー施設が完成す
る。(昆虫館は第7回で紹介した手塚治虫も子供時代に頻繁に訪れたらしい)
左の写真は大正初期の宝塚新温泉の入口である。当時は「改札口」と呼ばれたそうである。
私の記憶にある昭和30年代のファミリーランドの入口もこの写真と似たような造りであった
(木造ではなく鉄製であったが)。右は平成15年に閉園したファミリーランドのメインゲー
トがあった場所の現在である。大温室があったりサル山があったり、はしゃぐ子供たちの声に
包まれていた往時の面影は無い。
4.宝塚大劇場のある通り
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宝塚大劇場横の通り | 現在の宝塚大劇場前の通り
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花のみちの東端近く大劇場横の通りの写真である。旧大劇場は大正13年に建てられた400
0人収容の劇場で平成6年に今の大劇場に建て替えられるまで使用された。歌劇に興味はなか
ったので大劇場に思い出はないが、花の道を挟んで反対側はファミリーランドの動物園になっ
ていたので一般道路なのに柵越しにカバが見えたり、塀越しにキリンに見下ろされたりする珍
しい通りであったことが思い出される。
5.温泉管
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温泉管 |
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というわけで近代宝塚の成立要件の一つが「温泉」であることを再認識させてくれるものが
これ、「温泉管」のマンホールの蓋である。ワシントンホテルの前の歩道で撮ったものである。
ワシントンホテルが建っている場所は島屋という温泉旅館があった場所。島屋は今もホテルの
中に料亭として入っている。
万博の頃は60軒以上の旅館があったと言われる宝塚温泉であるが、震災もあって今は殆ど
姿を消した。余談ではあるが、妻が子供の小学校のPTAの役員をしていた頃、地区のイベン
トで料理を作ることがあった。「○○さんの奥さん、とても料理が上手で・・・」と話すのを
聞いて、「そりゃそうだろう。あの人は△△旅館という料理旅館の女将さんだったんだから」
といったやり取りをしたことがある。この界隈では「ちょっと得意」程度では下手に料理教室
なんぞ開けない。
6.宝塚大劇場
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宝塚新温泉遠景 | 今の宝塚大劇場遠景 |
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大正初期の宝塚新温泉の全景を旧温泉側から撮った写真である。今から100年前に何も無
かった場所に突如として現れた大アミューズメント・パーク。当時「モダーン」という言葉を
体現できるところがこの新温泉であったことは容易に想像がつく。総大理石で作られた室内プ
ールは温水施設が無く、夏でも冷たくて誰も入らなかった等、いろいろ失敗もあったようだが、
その云わば失敗穴埋め策としてプールを板で塞いで作った舞台で劇を上演したのが、今の宝塚
歌劇の始まりであるのだから何がどう成功に結び付くかわからないものである。
(本日の走行距離 36km)
2011年6月26日(日)北摂/境野丸山(2.5万図 武田尾)
境野丸山は宝塚北部西谷地区の西谷の森公園入口手前にある標高280.02mの山。地形図
上は無名の山だが、西谷地区のことを記した書物から「境野丸山」という名前を拾ったので、
名前があるなら、と訪れることにする。
天気予報があてにならない。昨日は朝から雨の予報に「走り」を見合わせてゆっくり起きて見
れば真夏のような一日。今日は曇との予報に早起きすれば、阪神地域は大雨洪水警報発令中。
どないやねん、と突っ込みの一つも入れたくなる散々な天気予報であるが、十分「想定内」の
事だけに、雨雲が抜けた、と判断したところで走りだす(5時55分)。
直接西谷地区へ向かったのでは距離が短すぎるので、川西能勢口回りで杉生まで行き、そこか
らターンして笹尾峠越えで上佐曽利に入るルートで現地に向かうことにする。
昨日の暑さに参ったか体調が思わしくない。頭痛が抜けない。こんな日はゆっくり走るに限る。
それでも走るにつれて徐々に体調は戻ってくるから不思議。上佐曽利から波豆まで走り、ちょ
っと大回りして7時54分、西谷の森公園入口に到着する。
さて、境野丸山である。地形図では同心円を描き、「丸山」であるが、実際見た目は丸くは見
えない。どこから登るか。取りあえず山の周囲に付いている道を一周するもよくわからない
(一周しても3分程度の小さな山である)。
2周目に山に浅く入り込む簡易舗装路を発見するもすぐに行き止まりになり、完全な雑木ヤブ
に突入することになる。なるべくヤブを避けながら山の北西側に回り込むとシイタケのホダ木
がかけてある場所に出る。ここから登りやすそうなところを縫って山頂に立つ(8時08分)。
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境野丸山山頂 |
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山頂には小さな狛犬に守られたコンクリート製の祠がある。傍にはその祠を覆っていたのだろ
う、木の祠が朽ちてひっくり返っている。名前が付いていただけあってやはり里人との繋がり
を示すものがあったということか。
しかし、先月登った長谷竜王山は今も地元の人がお参りしているような形跡があったが、こち
らはもう里との繋がりは無くなってしまったのだろうか、参道らしきものも判らずヤブに還っ
ている。
お参りを済ませて下山にかかる。北西と南の2方向に青テープが巻きつけられている。南は完
全にヤブになっているので北西方向に下る。登ってきたルートとほぼ同じようなルートで5m
ほど更に北西寄りのポイントに下る(8時13分)。
西谷地区はまだまだこんな里山が眠っているのかも知れない。不必要なほどの遊歩道整備より
も、こういう里人とのつながりの証を残す山の保全こそ望みたい。そんな思いをしたミニ・ツ
ーリングであった。
(本日の走行距離 81km)
織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。
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