山を駈ける風になれ2012年 4月号

 
2012年3月3日(土)西宮自転車散歩/名塩をポタリング(2.5万図 宝塚)
久しぶりの西宮自転車散歩。数えて第9回目の今日は名塩。名塩といえば大規模ニュータウンとい
うイメージが今では強いかも知れないが、もとは室町時代から記録にその名が登場する旧有馬郡内
の村で、今でも旧の街並を歩けば往時の雰囲気がそこかしこに漂う歴史ある街である。

名塩にはその特徴を表わす3つのキーワードがある。「蓮如」「和紙」「蘭学」である。いつもツ
ーリングでは通過ばかりの名塩。今日はこの3つのキーワードを中心にポタリングを楽しみたい。
とはいっても平坦地はなく短いが激坂の連続。これまでの西宮紹介とは一味違う内容となったこと
を付け加えておきたい。

蘭学通り

1. 蘭学通り  宝塚方面からR176を走って旧名塩村の入口で目に飛び込んでくるのがこの『蘭学通り』の文字 である。名塩と蘭学がどこでどう結び付くのかというと、北浜で「適塾」を開いた緒方洪庵の奥さ ん(八重さん)が名塩村の出身であるということなのだが、それだけのつながりで『蘭学通り』の 名前が付いたのではない。
名塩蘭学塾址

  2.名塩蘭学塾址  『蘭学通り』を進むと通りの左手にJAが現れる。ここは名塩蘭学塾があった場所である。 今はその敷地の一角に緒方八重の胸像が飾られている。緒方八重は緒方洪庵の兄弟子だった億川百 記の娘で、洪庵を支え総数約三千人と言われる適塾の塾生達の母親代わりとなって塾を切り盛りし た人である。  名塩蘭学塾はその適塾で塾頭を務めた伊藤慎蔵という人が妻(名塩村から迎えた)の病気を治療 するため名塩に移り住み、億川百記らの支援を受けて開いた塾である。億川百記は貧乏書生であっ た洪庵を資金面でも援助するなど、この人なくして近代日本の洋学を語れないといっても過言では ない。
谷徳製紙所

  3.谷徳製紙所 2つ目のキーワードは「和紙」である。名塩和紙は「鳥の子紙」と呼ばれる雁皮を原材料とした和 紙で製造過程で泥を漉き込む製法で耐久性の高い和紙として寺院の襖紙や藩札に用いられた。紙漉 き体験が出来る「和紙伝習館」が国道沿いにあるが、名塩和紙を業として作っているのは、ここ谷 徳製紙所だけになってしまった。因みに億川百記も紙漉業を営んでいたと言われる。
東山弥右衛門顕彰碑

    4.東山弥右衛門顕彰碑 名塩に和紙の製法を伝えたのは誰であろうか。諸説あるが最も普及しているのが、東山弥右衛門説 である。写真はその弥右衛門の顕彰碑である。弥右衛門の名前の上には「紙職元祖」の文字が彫ら れている。 この碑は文久2年に建てられたものであるが、弥右衛門はいつ頃の人か定かでないと書かれてあり、 墓の体裁は取っているが、実際は顕彰碑といった方がふさわしい。
名塩川

    5.名塩川 さて、その弥右衛門なる人物であるが、伝承では越前から和紙の製法を持ち帰ったとされている。 当時他国から門外不出の技術・製法を持ち帰るのは大変なことで、弥右衛門は越前で得た妻子を 捨てて貧しい名塩村に技術を持ち帰る。   妻は子の手を引き、弥右衛門に会いに名塩村までやってきたが、村人は弥右衛門に会わせない。 嘆き悲しんだ妻は子と共に自殺する。村人は哀れに思い供養塚を立てる。この伝説を題材にした のが、水上勉の小説『名塩川』である。  否、追ってきた妻は末代まで祟ってやる、と言い残して死んだという説もある。供養塚を村人が 祟りを恐れて立てたと考える方が自然かも知れないが小説にはならない。  塚がどこにあったのかは判らない。このサクラの根元にあったとしたら小説の影響を受け過ぎか。
教行寺(名塩御坊)

    6.教行寺(名塩御坊) さて、3つ目のキーワード「蓮如」である。京都の本願寺を焼き討ちされ追われた蓮如を猪名川の 広根まで出迎え布教を懇願したのが名塩の村民。蓮如は招きに応じ名塩で布教をする。その拠点と したのが、この教行寺である。  教行寺は代々親鸞の血統の子孫が住職を継ぐという連枝寺院として教団の中でも勢力を持ち、名 塩御坊と呼ばれたという。城郭のような造りで太鼓櫓が特徴的である。門は閉ざされているので中 には入れない。急坂の街なので国道を挟んで中国道沿いの高台から撮ってみた。
蓮如上人旧跡の碑

   7.蓮如上人旧跡の碑 教行寺から名塩交差点に下ったところにある。名塩和紙の製法を伝えたのは蓮如と言う説もある。 蓮如が越前から伝えたというこの説は時代が合わない。名塩はそんな伝説がいくつも重なり合って いる街である。
坂の街、名塩こういう細い急坂の道がたくさん

8.坂の街、名塩  名塩は名塩川沿いの急斜面に開けた谷合いの集落である。こうして南側から名塩の集落を撮ってみ るとよくわかる。実際に入ってみると迷路のように細い道が曲がって続いていて、自転車ではちょ っと辛い激坂の連続である。
R176バイパス工事

    9.R176バイパス工事現場 何年か前からR176の渋滞緩和で進められているバイパス工事。このトンネルの先でループ橋に 繋がり名塩山荘交差点のところに行くのだろう。いずれにしても自転車では走りにくい道だ。バイ パスが完成したら名塩の集落は静かになりそうだ。そしてクルマに追われるように走り抜けている 自転車ツーリングも、もっと快適なものになるかも知れない。 名塩散歩だけではあまりに距離が少ない。天気もよさそうなので生瀬まで戻り、十万辻から西谷を 周回した。 PS.  そうそう、東山弥右衛門の顕彰碑がある場所は「中山」という小山にある。名塩の集落を囲むよう に位置する「南山」、「東山」はこれまで踏査済。「北山」は宅地開発で消失したことは判っている。 残るは「西山」の位置と場所。また機会を見つけて探してみたい。        (本日の走行距離 72km) 2012年3月25日(日)京都/R9を起点から走る(2.5万図 京都西南部他) 国道9号線(略してR9)は京都市下京区烏丸五条を起点として山口県下関市下関駅西口交差点まで 山陰地方を走ることから山陰道とも呼ばれる日本で2番目に長い650kmの国道である。 亀岡市役所前から園部方面に向かって少し走ると、道路脇に『烏丸五条より19.8km』と記され た標識がある。 「19.8km東に走れば京都か」と思いながらもこれまで試したことが無かった。そこで今日は『 R9を起点から走る』というテーマでR9を走ることに。 夜中まで降っていた雨も上がり晴れている。天気予報は「京都府南部、曇一時雨」。でもとても雨が 降るとは思えない。行ける所まで行ってみるか、と午前5時57分スタートする。 いつもの旧R176を東進、池田の古い街並みを抜けて箕面駅南に出、R171に合流。ひたすらR 171を走れば、追い風基調ということもあって常時30−35km/hをキープ、8時前には西大 路九条を通過、すぐに東寺の五重塔が現れると、8時15分にはR9起点の烏丸五条の交差点に着く。 (市内の大きな交差点は常時左折可のところが多く、自転車は直進したくても直進できない構造にな っており、中心部に入ってから烏丸五条まで時間を食ってしまう)
どこから見ても京都です(東寺五重塔)烏丸五条交差点。ここがR9の起点です

さてR9起点の碑なるものがないかと交差点の四隅をチェックするもそれらしきものは見当たらない。 ここから堀川五条まではR1と重なっているので、あまり起点という感じがしない。分離帯にクラシ ックな時計塔が建っているので記念にデジカメに収める。 交差点をぐるぐる回って時間を取った。改めて起点から西に向かって走り出す。堀川五条を過ぎれば 実質R9、『太秦・映画村』行きの市バスの後についてスピードを上げる。五条通は意外と両脇に大 きな社寺が無く、建っているビルもどこの都市でも見られるチェーン店が多く、京都らしさは感じら れない。 桂川を渡ると徐々に上り基調に。最初の上りをクリアするとそこは国道芋峠交差点。「国道芋」とい う芋があるわけではない。芋峠という名前に「国道」を付けただけのことだが、くっつけて読むと「 大学芋」みたいになるから面白い。腹が減ってきた。ここまで飲まず食わずで走ってきたので交差点 脇にあるコンビニで食糧補給タイムとする(8時53分)。
老ノ坂トンネル首塚大明神

小腹を満たしたところでスタート、いよいよ老ノ坂峠への上りにかかる。斜度自体は大したことない が向い風が強く結構疲れる。それでも山の中に入ると共に風が遮られ老ノ坂トンネルが目の前に現れ る(9時20分)。トンネルは出口の向こうが見えており短そうだが、ここは敢えて旧道を行く。 目的は「首塚大明神」に立ち寄るためである。いろんな伝説のある首塚大明神であるが、酒呑童子の 首を埋めたという塚に詣で、暗い老ノ坂峠を転げるように下って再びR9に合流すると見慣れた亀岡 盆地の風景が広がり始める。
老ノ坂峠

  次に本日のもう一つの立ち寄り所「頼政塚」を訪ねることにする。「頼政塚」という名前の交差点が あるのですぐに判る。交差点を南に折れ、丘陵地を上っていくと、小高い山の上に鳥居と塚が見える。 小学校の裏手から階段を上がると、下から走ってくる時に見えた塚の前に出るが、これは地主何とか という塚で別物。もう一段上がった所が頼政塚である(9時45分)。
頼政塚

  鵺退治で有名な源頼政であるが、以仁王の号令に呼応して平氏討伐の兵を挙げたが敗れ宇治で自刃、 家来が頼政の領地であるこの地に亡骸を埋葬したのが頼政塚と言われている。 源氏ゆかりの史跡を2つ訪れたところで本日のR9を起点から走る企画も亀岡市役所前に到着して終 了する(9時58分)。 これで起点から関宮町関宮まで138kmが繋がり、島根県や鳥取県で走ったルートと合わせるとR 9を215km走破したことになった。(自身のツーリングではR10の230kmに次いで2番目) 幸い天気もどうにか持った。風が弱ければこのまま園部まで走るつもりだったが、向い風でかなり足 に余裕が無くなってきたこともあり、余部から旧道のR372を走って湯の花温泉へ。後はいつもの の柊峠を越えて、清和源氏発祥の地、川西へ。山陰道を起点から走りながら源氏関連史跡をツーリン グ。12時30分に帰宅した。        (本日の走行距離123km) 織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。

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