山を駈ける風になれ2013年 5月号

 
2013年4月13日(土)京丹波/板坂峠〜須知周回(2.5万図 村雲、園部) 
名残のサクラを求めてのんびりツーリング。R173篠山市と京丹波町の境にある板坂峠(正確に
は板坂トンネル)は、これまで何度も通ってはいるが、須知に抜ける道はまだ走ったことがない。
篠山でもサクラはほぼ終わりだというが、さてどんな名残のサクラに会うことができるだろうか、

5時27分、放射冷却が効いて冬に逆戻りしたかのような気温の中をスタート。スピードは上らな
いが、日中は気温が上るようなので徐々に筋肉も温まっていくだろう。いつもの川西能勢口回りで
県道12号線を北上、杉生で水分補給を行った後、杉生新田、泉郷峠、天王(7時32分)と走り
継ぐ。
天王に向かう道では気温0℃だったが、道路脇では土筆と菫の“春の二重奏”が見られるなど着実
に春は進んでいるよう。天王は今がサクラの満開の時を迎えているようだ。
春の二重奏

R173を一気に下って、細工所にあるコンビニでブランチ休憩の後、ようやく暖かくなってきた 春の丹波路を更に北上し板坂トンネルを越える。 トンネルを越えるとすぐに次のトンネルが現れるが、トンネル手前を右に下る道に入る。これが須 知に通じる道である。 西谷山の東の山裾は優しい春のパステルカラーに彩られている。その主役はヤマザクラだ。R17 3の下をくぐって、すぐの三叉路を右に取り、小野の集落を進んでいくと、そこは満開のサクラに 包まれた、まるで桃源郷のような景色が広がる。
西谷山東麓の春の山の表情

穏やかな気持ちになって走っていると(旧)丹波町へ向かう峠道に差し掛かる。道路が拡幅されて きれいに整備されている。おまけに『斜度9%』の余計な標識まで現れる。まあ何とか問題なくク リアすれば、更に『斜度10%』の標識が登場。 まあ、ゆっくり走れば問題はない。むしろ10%も無いのではないかというのが個人的な感想だ。 峠を上り切れば、胸のすくような景色とダウンヒルが待っている。
丹波町に向かう無名の峠で

あっという間に下り切ると、椿坂まではのんびりした田園風景が広がる。春霞の中、満開のサクラ を眺めながらの走りが続く。少し上り返すと椿坂(9時0分)、須知の古い街並みまでは僅かだ。 須知の街はR9が市街地の東を通っているお蔭で、それなりにいい雰囲気が残されている。どこか で立ち止まろうと思いながら走っていたが、結局街中を抜けてしまう。
観音寺付近で路傍の風景(須知のはずれの山裾で)

街はずれの山側に祠に祀られたお地蔵さんを見つける。子供達が塗ったのだろうか、彩色鮮やかな 化粧地蔵が4体だ。ここでもまだこんな風習が残っているのだろうか。更に祠を飾り立てるかのよ うな満開のコバノミツバツツジが印象的だ。 降り注ぐ日差しでかなり暑くなってきたので(といっても気温は10℃だが)、ウインドブレーカ ーを脱ぎ、半袖ジャージ姿で中山峠を越える(9時20分)と、そこはホームグラウンドの園部の 船阪。 風向きは南向きに変わり、向い風基調。時折り強い風が吹く中、春を全身に感じながら能勢路に入 ると、同好の士達が俄然増える。気持ちよく追いつ追われつしながら帰路に向かう。帰るなり淡路 島で地震のニュースにびっくり。まさに桃源郷から現実に戻った感がしたツーリングであった。        (本日の走行距離131km) 2013年4月15日(月)多田/多田源氏の里を訪ねて(2.5万図 広根)  日玉山探索ポタリングの番外編。   川西市の多田地区は言わずと知れた多田源氏発祥の地。今から1000年以上前に清和天皇の血筋 を引く源満仲が、居所を決めようと大阪の住吉大社から放った神矢が到達した地がこの多田。つい でに言うと満仲が放った矢は今の東多田に在ったという大きな池(満干池)に棲んでいた龍に当た り、その龍は絶命。もう一匹いたという龍も池から逃げ出し、水が引いた場所に現れた肥沃な土地 に多田と名付けて住んだ、という伝説(九頭龍伝説)が残っている。 さてそんな満仲と九頭龍伝説にまつわる史跡を訪ねてポタリングをしてみよう。
源満仲像

JR川西池田駅のロータリーに立っている。源氏というと頼朝や義経、はたまた大江山の鬼退治で 知られる頼光の方が知名度は高いが、彼らは総てこの満仲の血統である。川西市の市章は笹竜胆、 4月には源氏祭が開かれる等、まさに“源氏の町”である。
鼓が滝(西行歌碑)

『音にきく 鼓が瀧をうちみれバ 川邊ニきくや しら百合の花』 鼓ケ滝という滝がどこにあるのかこれまであまり気に留めたこともなかったが、いざ今回の古地図 と照らし合わせながらのポタリングをするにあたって、改めてどこにあるのか調べてみて驚いたの は、今はもうよく判らなくなっているということ。 『摂津名所図会』や『摂津国名所旧跡細見大絵図』には堂々たる滝が描かれているが、さてどこに あったのであろう。この歌碑は銀橋をR173側に渡った交差点の北東角に設置されている。滝は まさに龍を現す言葉であり、この地に九頭龍伝説があるのも鼓ケ滝があったからに他ならない。  1000年前の西行の時代はいざ知らず、180年ほど前の古地図に描かれているのだから、所在 がよく判らないというのも不思議な話。 はっきりしているのは、180年前には県道12号側の道は無かったということ。ということは当 時の人が眺めた滝は猪名川左岸から、右岸の岩肌を削って流れ落ちる滝を鑑賞したのではなかろう か。無責任な推測だが、古江から見た絵とすれば、今の能勢電の鉄橋をくぐる手前(南側)の竜王 の社付近に滝が落ちていたのではないかと思われるがどうであろう。
九頭神祠

小さな神社である。九頭大明神と書かれた祠を、もっとバックして撮ろうとしても境内がせまくて 後退できないくらいである。東多田にある。2.5万図にも鳥居マークがついてはいるが、入口が 判らず、辿り着くのに随分時間がかかった。やはりこういうポタリングは1万図に限る。 ぼやきはさておき、最初に書いた九頭龍を祀る祠で、今では首から上にご利益があるとされている そうである(教育委員会の説明板より)。
光遍寺

『満干池 当寺にあり。九頭の大蛇眩棲みしとぞ。池水に満干あり』(摂津名所図会) 池なのに干満があったと記すことで如何にも九頭龍が棲んでいた雰囲気が伝わってくる。池のあっ たところは、今は宅地になっている。九頭大明神からわずか300mほどの距離ながら迷路のよう に曲がりくねった道でこの寺に着くのに随分時間がかかった。
多太社標石多太神社(たぶとじんじゃ)

『多田荘平野村にあり。『延喜式』に出づ。近隣四ケ村の生土神とす。例祭九月二十九日。京師平 野明神の勧請なり。満仲公社殿を修補したまふ。また今多田と書き改めしは九頭大蛇亡びて後、さ しも上古より涸るる事なかりし池水たちまち丘となりければ、ここに城を築きたまひ、池水四方へ 流れ散りて、多く山田の助となりけるゆゑ、多太を改めて多田荘とぞ習きたりける。』(摂津名所 図会) ここでも満仲と九頭龍の話が出てくる。そして多太=多田と同じ意味であることもお判りになるだ ろう。この社号標石はR173平野駅前交差点の西側にある。元文元年(1736年)に建てられ たもので、神社の由緒などが判らなくなってしまうことを防ぐために建てられたもののひとつであ ると説明板に記されていた。
新田古城(新田城山公園)

『多田庄新田村にあり。満仲公居城ある所なり。その後塩川伯耆守ここに居す。古跡今に威儀顕然 たり。』(摂津名所図会) さて、多田源氏の祖、源満仲であるが、この城山公園の辺りに居館を構えていたようである。摂津 名所図会の文章や、「城山」という言葉から、一段高くなっていたものと思われるが、現在は写真 のとおり、住宅地に囲まれ、小高い丘であった名残は何も残っていない。 この公園を見つけるのに随分時間を要したことを付け加えておこう。
多田院馬場垣内公園

多田院の西側にある小さな公園だが、大規模宅地開発地にありがちな、どこそこ○号公園、といっ た類の名前と違って、源氏の本拠地であったことを感じさせる名前である。
多田神社(多田院)

そして多田神社である。住所もずばり「多田院多田所町1−1」である。天禄元年(970年)創 建の神社で、元多田院とも言われる源氏の総本家のような神社。祀られているのは満仲、頼光、頼 信、頼義、義家の5公。源氏発祥の地といわれる所以である。
矢問(やとう)

 満仲が大阪の住吉神社から放った神矢の行くえを尋ねた場所、というところから付いた由緒ある 地名。これ以上の説明は矢問さんにお任せするとして多田エリア自転車散歩を終えるとしよう。 2013年4月15日(月)多田/日玉山(2.5万図 広根)  古地図に記されながら現代の地図から名前が消えた山を訪ねる。 今回は『摂津名所図会』(寛政8〜10年(1796〜1798年)刊行)や『新改正 摂津国名 所旧跡細見大絵図』(天保7年(1836年)刊行)で多田地区(川西市)にその名が記されてい る日玉山(ひたまやま)を訪ねる。 「日玉山」の記述はこうである。  『平野村にあり。山頂に愛宕権現祠あり。ゆえに一名愛宕とも称す。山中に巨巌多く、水晶を産 す』(『摂津名所図会』)。
古地図に描かれた日玉山

まず場所を推定する。平野村とあるから今の能勢電平野駅周辺だというのは容易に判る。さて天保 7年版地図を広げて山が描かれている場所を確認する。薬師堂・平野湯・多太神社より西、多田古 城の北、新田の北東、小童寺の南、という名所旧跡に囲まれた場所にある山であることがわかる。 多田古城の正確な位置は判らないが、薬師堂・平野湯は平野鉱泉が出ていた所。多太神社は今も鎮 座しているし、新田は今の多田院の東側に地名が残っている。小童寺も場所が判っている。という ことで場所特定のファクターはほぼ揃っている。 では現代の地形図に当てはめてみるとどうなるだろうか。2.5万図『広根』でチェックしてみる。 まずい。殆どが宅地開発(多田グリーン・ハイツ)されてしまっている。日玉山も今はその姿を現 代に留めないのか・・・。 「日玉山も」といったのは、もう一つ訪ねるべく場所探しをしていた「旗指山」という山が新興住 宅地(鶯台)に変わってしまっていたという先例があったから。源満仲が御旗を靡かせて諸事の機 を窺っていた(摂津名所図会要約)というので是非訪ねてみたいと思っていたのだが、多田村にあ ったという秀嶺は既に削り取られて無くなっていたのである。 話を戻して日玉山である。殆どが宅地開発されてしまったとはいえ、平野駅すぐ西側に138m標 高点山がある。この山頂に愛宕の祠があれば、これが日玉山ということになる。望みは薄いかも知 れないが、現地に行って確認してみることにする。 多田といえば多田源氏発祥の地。せっかくの休暇を取ってのポタリングなので、多田源氏始祖の源 満仲に纏わる史跡を訪ねながら平野に向かう。
多田東交番交差点から北に山が見える

R173を銀橋から北上する。平野の手前、多田東交番前交差点から平野方向を見ると形のいい山 が迫ってくる。地形図の138m標高点山である。当時の古地図は絵図である。街道筋近くにある 低山の方が、遠く離れた高山よりも目立つ存在であり、旅の道中の目印に描かれる可能性は高い。 日玉山の可能性が出てきた。平野交差点を左折(7時00分)、山を左手にみながら坂道を上り、 山の北側を蒔き終わったところで、南に住宅地の中を進む。と、突き当りを細い道が山に向かって 続く気配。 もう、こうなると長年の勘で頂上まで道があることの察しが付く。細い簡易舗装の道は、幅のある 地道に変わり、途中で右手から上がってくる道と合流し、登ること1−2分で頂上部に着く(7時 08分)。
日玉山山頂の愛宕社

(平野交差点から8分で頂上に着いた割には変化のある行程だった) さて、頂上部には小さな祠がある。掲額を見てみると『愛宕大神』の文字が・・・。どうやら間違 いなくこの山が『摂津国名所旧跡大絵図』に描かれていた日玉山のようだ。『巨巖多く水晶を産す』 というほどの巨岩は見たところなさそうである。 祠にお参りをして下山する。下山は登りの時に途中から合流してきた道を下る。これまた1分もか からない内に住宅地の道路に出る。『愛宕山登山口』の標識がある。今では愛宕山というのが地元 の呼び名のようである。 更に北に向かうと、もう一つ登り口があるのを見つける。ここが一番参道っぽい雰囲気の道である。 山が宅地開発されてなくてよかった。山頂に愛宕の社があったからであろう。そんなことを考えな がら源満仲の居城があったという新田古城を探しに自転車にまたがった。        (本日の走行距離 45km) 2013年4月15日(月)平野/平野鉱泉の跡を訪ねて(2.5万図 広根)  日玉山探索ポタリングの番外編。  <書きかけ。> 川西市の多田地区から北に1駅、平野地区は平野鉱泉、後の三ツ矢サイダー創業の地として知られ る鉱泉が湧き出ていた地区で、『摂津名所図会』には「平野湯」、『摂津国名所旧跡細見大絵図』 には「平野温泉」が描かれている。昨年「宝塚自転車散歩シリーズ」でも書いたが、有馬から宝塚、 平野、能勢にかけては日本のサイダー黎明期における一大製造地域であった。そんな鉱泉ゆかりの 史跡を訪ねて回ることにしよう。
平野湯 <多田平野湯の町温泉薬師庵の碑>薬師堂

平野交差点を北に向かってすぐの細い脇道を左折して入ったすぐのところにある。『摂津名所図会』 には、金泉であったこと、鹹く渋い味であったこと、焚いて入浴したことなどが記されている。宝 塚温泉(塩尾ノ湯)の「鹹い水、酸い水」という記述と共通する。  『摂津国名所旧跡大絵図』にはこの薬師堂が描かれている。ここから鉱泉を引いていたようであ るが、今は大通りから隔離された狭い境内に小さなお堂がひっそりと佇む静寂の地となっている。   
塩川

猪名川の支流。豊能町のときわ台から一の鳥居を通り、多田で猪名川に注ぎ込む。川の名前の由来 は知らない。このあたり一帯は多田御家人の筆頭塩川氏の居館や砦が点在していたので、そこから 付いた名前なのかとも思うが、そもそも「塩川」という名前自体が、鉱泉に由来する名前だとも考 えられなくはない。  平野鉱泉は源満仲が鷹狩りの途中、この川の湧水で傷を癒している鳥を見て発見したとも言われ ている。中下流域はお世辞にもきれいな川とは言えないが、上流域では水生昆虫が沢山棲息してい るようである。この橋から見た川沿いの風景に当時の温泉宿の光景が重なってみえるのは私だけで あろうか。
三ツ矢サイダー

平野交差点を北に向かうとすぐに国道の両側に山が迫ってくる。その手前、能勢電側にこの建物は ある。「三ツ矢」の名前は、満仲が住吉神社から北に向かって放った矢を見つけた家来に褒美とし て贈ったことに由来している。  明治に入り宮内省が官製のサイダー工場として製造を開始、後に三菱に払い下げられて、後にサ イダーの名前に、元々この土地を領有していた三ツ矢氏の名前に付けた、とか聞いたことがある。
御料品製造所

三ツ矢サイダーの塔(?)の山側にある。大正天皇に献上するサイダーの製造所。中はサイダー記 念館になっていたそうだが、今は入れるのかどうか不明。
鉱泉裏踏切踏切から一の鳥居方面の眺め

三ツ矢サイダーの塔(?)の南側の道は、この踏切を横断して雑木林の中に消える(先に廃屋あり)。 ここにも鉱泉の名前が残っている。小さな踏切だが、朝のラッシュ時間帯に訪れたせいか、引っ切り 無しに警報が鳴り、風景とは裏腹にのんびりと踏切の風景を撮るような余裕はなかった。 今では湯の町として栄えていた頃の面影は窺い知ることもできないほど変貌しているが、その名残は、 駅前の温泉病院などにも見ることができる。鉱泉を中心に足跡を追ってみたが、やはり源満仲と多田 御家人を抜きにしては語れない自転車散歩であった。 2013年4月27日(土)北近畿/質美街道経由、和知〜福知山(5万図 綾部他)  GW3連休のスタート。今日は絶好のサイクリング日和になりそう。思いっきり長距離を楽しんでみ たいと、いつもの周回走ではなく、変則コースで綾部から福知山を周回するプランを立てる。 5時00分、少し雲が多めの薄暗い中をスタートする。今日は200kmコ−スなので心持ちスピー ドも自重気味に赤坂峠を通過。やや北寄りの向い風にも無理はせず淡々と走る。とはいっても三田― 篠山間はずっと外気温4℃。半袖ジャージに短レーパンではやや寒く、どうしても力を入れて走るき らいも。 篠山盆地を抜け栗柄峠に向かう頃になると気温もやや上がり始め、足の筋肉も徐々にほぐれてくる。 栗柄峠で水分補給休憩をし(7時16分)、鼓峠を越え、本郷からは素直に福知山に向かわず、京丹 波町の鎌谷奥方面に走り、水原でR9に合流。更に東に走って和田に(8時14分)。 今度は和田からR173を北上、粟野の先で国道を離れ、田舎道を北上、突き当りの三叉路を右折し て質美街道を下山方面に走る。 
のどかな質美街道風景

ここから暫くは、まだ一度も走ったことがない区間でどんな風景に会えるか楽しみ。鄙びた風景に心 身共にリフレッシュしながら走っていくと、一見ワイナリーかと思うような学校が出てきたりと変化 に富んだ景色を楽しむ。保井谷から下山に向かう道と合流すれば初めての道はおしまい。 いつもは下山駅前で休憩をすることが多いが、今日は通過。すぐにR27に合流すると一路和知へ( 和知着 9時24分)。ここまでで自宅からちょうど100kmだ。予定の200kmをかなりオー バーするかも知れない。まあ、何とかなるだろう。
去年登った三峠山をぐるりと見ながら和知へ向かう

和知から綾部へは下り基調だが、どういうわけか北西の風に変わり、結構足を使う。それでも10時 過ぎには綾部の中心部に入る。市の中心部は信号が多く、時間を無駄に使ってしまうので、以前気持 ちよく走れた中丹広域農道を使って福知山まで走る。 本当に信号が殆どなくて走りやすい。当時より道が延長されたのか記憶が定かでないのだが、ランチ 休憩に考えていたコンビニが突然前方に現れ、躊躇することなくランチ休憩を取る(10時37分)。
初夏の水田

ここまで128km。残りは約89km。風は追い風基調に変わるので問題の無いところ。慣れ親し んだ筈の福知山市街地で行き先を間違える“ご愛嬌”もあったが、今年初めての長距離走にも足は疲 れることなく、着実に距離を稼ぎ、市島・春日経由で朝の栗柄峠へ(12時35分)。 道中何度もフォト・ポイントを求めて立ち止まったりしたが、15時前には家に帰り着き、充実のG W初日を楽しむことができた。        (本日の走行距離218km)

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