山を駈ける風になれ2014年 11月号

 
2014年10月12日(日)倉敷/金田一耕助のふるさとを歩く(2.5万図 箭田) 
倉敷市真備町に横溝正史作品の足跡を訪ねる。
私が初めて横溝作品に出会ったのは小学生の頃に読んだ『本陣殺人事件』。同級生達が読む少年向け
シャーロック・ホームズの活躍潭はどうにも性に合わず、古い秩序・倫理観に支配される旧家で起こ
る陰鬱な事件と、意表を突く大仕掛けのトリックに引き込まれ、貪るようにして読んだのを覚えてい
る。
そんな小学生だったから、夏休みの課題図書として宿題を課せられる本は、どうにもわざとらしくて
読む気が起こらず、感想文を書けと言われても、何の感想も無いものだから、嫌でしょうがなかった
思い出しかない。このサイトの読者には、そんなご同輩が多いのではないだろうか。

この体育の日にまたがる三連休は、篠山の味まつりに行くのが、ここ10数年わが家の恒例行事にな
っていたが、今年は趣向を変えて、「倉敷にこんなところがあるんやけど・・・」とヨメさんを誘う
と、2つ返事で乗ってきた。実は2人して横溝作品の大ファンなのだ。

まだ真っ暗な中を午前5時過ぎに出発。JRで尼崎から姫路へ向かい、姫路で「岡山方面新見行き」
列車に乗り換える。倉敷を出ると列車は伯備線に入り、定刻より2分遅れの9時45分《伯備線の清
−駅》(※1)に着く。
そう、パトロンの久保銀造から《克子死ス 金田一氏ヲヨコセ》の電報で、昭和12年11月27日、
伯備線の列車に乗ってやって来た金田一耕助が下り立った清−駅こそ、この清音駅である。
清音駅に着きました

『本陣殺人事件』では耕助は停車場を出ると、《高−川》(高梁川)に架かる《川−橋》(川辺橋) を渡って《川−村》(川辺村)の街道(旧山陽道)に入ったところで、いきなり乗合自動車が電柱に 乗りあげる事故に遭遇するというハプニングの後、旧本陣《山ノ谷の一柳家》の屋敷へ着くのだが、 それは最後に取っておいて、延着で乗換え時間に余裕がなくなり、慌しく井原鉄道に乗り換え、息つ く暇も無く次の川辺宿駅で下車する(9時51分)。 もう、ここまでで「伯備線」、「新見」、「総社」(清音駅の次の駅)等、横溝ワールドを構成する 単語が次々に現れる。 「総社」は『本陣−』の捜査本部がおかれた署がある場所。『悪魔の手毬唄』では栗林りんは既に死 んでいると、耕助が旅籠屋井筒の女将から聞かされた場所。(もっとも後者は“鬼首村から一里半、 仙人峠を兵庫県側に越えたところ”とあるので設定は異なっている。) 川辺宿駅は川辺集落から南に外れた場所にある。『本陣−』発表当時、この駅は存在していなかった ので、金田一は清音駅から一柳家に向かったのだが、高架駅舎の橋脚に金田一耕助のシルエットを連 想させる絵を飾るなど、地区ぐるみで盛り上げようという雰囲気が伝わってくる。台風の影響だろう。 東寄りの風が強い。
川辺宿駅高架下の金田一耕助のシルエット

さて、どんなものに出会えるだろうか。ミステリー遊歩道を北に向かって歩いていく。旧国道を渡ろ うとするところで最初に出迎えてくれるのは『巴御寮人』像。 あの『鵺の鳴く夜は恐ろしい』の『悪霊島』に出てくる重要登場人物である。「お、いきなり新しい 作品から来るか・・・」
巴御寮人

そして農道に曲がろうとする角っこに『森美也子』像が立っているのを発見。手を斜め下に伸ばして いるポーズは、連れてきた寺田辰也青年に峠の上から「あれがあなたのお家・・・」と擂鉢の底にう ずくまるような八つ墓村を説明しているシーンなのだとか。
森美也子

なかなか面白くなってきたなあ。次は誰が出てくるんだ? 用水路沿いを自然なカーブを描く農道を のんびり歩いていくと、農道が交差するところ、柳の木が木陰を作っているその下に『了然和尚』像 が提灯を持って登場する。
了然和尚

『鶯の身をさかさまに初音かな』・・・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』にヒントを得た、日本版 マザーグース殺人事件『獄門島』で一番目の見立て殺人に使われたのがこの其角の句。『きちがいじ ゃが仕方がない』(※2)という了然和尚の吐くキーワードはあまりにも有名。 更に真っ直ぐ北に向かうと右手から直進してくる道路と出合い、左手手前に公園、道を挟んで向こう 側の角に酒屋が視界に入る。この直進してくる道路は、江戸中期に作られた岡田新道という道で道幅 が二間あったことから、『本陣−』では《二間道路》という名前で何度も登場人物が往来する道である。
公園になっている岡田村役場跡

公園の入口には石碑が立っていて、ここが「岡田村役場跡」であったことが記されている。というこ とは、道を挟んで向かいの角にある酒屋は、耕助が一柳家にやって来る4日前の11月23日、《久 −村》(久代村)の伯母を訪ねて行く途中だった『三本指の男』こと清水京吉が一柳家へ行く道を訊 きに立ち寄った一膳飯屋「川田屋」のモデルとなった店か(となりに「川田屋」と暖簾を出している お店もなかなか年季の入った建物だが・・・)。
川田屋のモデルとなった酒屋(三宅酒店)

さて、ここから北西に真っ直ぐ進めば、記念館になっている「横溝正史疎開宅」だが、南西方向に歩 いて、一柳家のモデルになった屋敷跡を回り込みながら「真備ふるさと歴史館」に向かって歩く。気 温は高いが風が強いのでさほど気にならない。 一柳家のモデルになったという大きなお屋敷は既に無く、一面が竹藪になっている。ところどころ地 肌が見える崖も見受けられる。一柳家を訪れた『三本指の男』が、久代村への山道を辿る前に、屋敷 裏の崖に登って最後の風景を眺めたのはどの辺りであろうか等と考えながら歩くうちに「真備ふるさ と歴史館」に到着する。ここで出迎えてくれるのは誰あろう『金田一耕助』像である。
岡田大池

「真備−歴史館」は、半分近くのスペースが横溝正史の資料を展示している。この歴史館のすぐ北側 にあるのが岡田大池。『空蝉処女』の舞台となったのがこの池なのだが、『本陣−』の中においても 耕助と銀造が炭焼小屋を見つけるくだりに、《崖沿いに東へ急カーブしていたが、そのカーブを曲が ると、突然ふたりの眼前に、かなり大きな池が現れた》とこの大池を連想させるくだりがある。 池の畔を歩いていく。北東角にまたまた銅像発見。『悪魔の手毬唄』の名場面、『千人峠のおりん婆 さん』の像だ。
仙人峠のおりん婆さん

「おお、腰の曲がり具合にキレがある・・・」。 おりん像の横の石仏の前に手に持っていた地形図やバッグを下ろしながら、おりん婆さんを撮影する。 後で、荷物置き場に使った石仏こそ『空蝉処女』に登場する『濡れ仏』だったと知る。
濃茶の祠

池の北側を東西に走る歴史街道(もともとこの辺りは吉備真備で有名な場所)を東に歩く、ちょうど 稲の収穫時期と見え、あちこちで稲刈りをされている。山之谷から八代越えで久代地区へ通じる道( 耕助が久代村へ刑事を聞き込みに向かわせた道)を左手に見送り歩くと、さきほどの酒屋からの道が 上がってくる。 その道が交差するところ、コスモスが揺れる道端に「濃茶の祠」が鎮座している。あの『八つ墓村』 に登場する『濃茶の尼』というキャラクターの名前の出所といったらよいだろうか。でも、この村に 伝わる濃茶のばあさんの話とは全く関係がない。祠の中を覗くと「濃・・・」という文字が書かれた 木のお札の先端が僅かに見える。横に馬が彫られた小さな石碑も気になる。
旧横溝正史疎開宅

「濃茶の祠」にお参りの後、「横溝正史疎開宅」に向かう。旧吉備郡岡田村字桜。昭和20年3月正 史はここに疎開、約3年過ごしたという。疎開していたという家だから当然広い屋敷でもなんでもな い普通の農家なのだが、正史がここで、あの作品群を次々と生み出して行ったのかと思うと別物に思 えてくるから不思議だ。
千光寺

歩き疲れたというヨメさんを村役場跡の公園の方に向かわせておいて、更に千光寺まで足を伸ばす。 境内に死体を逆さ吊りにするような古木(さきほどの了然和尚の箇所ご参照)は見当たらない小さな 曹洞宗のお寺だ。映画に出てくる尾道の千光寺のような長い石段はない。洗濯竿につなぎが干してあ るのが、復員兵の服に見えたのはご愛敬。
濃茶の祠から一柳家跡の竹林を見る
角の酒屋まで戻って来る

千光寺を辞し、疎開宅前、濃茶の祠を通って一柳家(のモデル)があったという竹林を見ながら酒屋 の向かいの公園へ向かう。公園で待たせている間に、すっかり酒屋(三宅酒店という)の老夫婦と親 しくなったようで、今年御歳87歳になられたというご主人は子供の頃、手伝いで横溝正史宅に酒を 届けに行かれたことがあると興味深い話をしてくれるが、何故かお土産にとトイペを貰ったという。 これは何と謎解きをしたらいいものだろうか。
現在の二間道路も一直線

さて、《二間道路》こと岡田新道を川辺方面に歩く。勿論今は拡幅されて広くなっているが、昭和1 2年当時を十分想像することが出来る道である。するすると下ってR486と交差する手前角にあっ たという煙草屋(磯川警部と耕助が川辺の木内医院に入院している白木静子(殺された花嫁、久保克 子の同僚)の聞き込みを終えて一柳家へ戻る途中、《おかみさん久−村に行くのはこの道を行けばい いんですか》と聞いた煙草屋)はカー用品の販売店に変わっていたが、486を渡った先にある郵便 局は健在。 ここは銀造が耕助を呼ぶために妻宛に電報を打った場所である。
川辺郵便局

そして、今日の旅も最終盤を迎え、川辺宿の街道筋を歩く。宿場町のメインストリートの北側に「脇 本陣跡」、続いて南側に「川辺本陣跡」の碑が現れる。
川辺本陣跡

《一柳家はもと、この向こうの川−村の者であった。川−村というのは、昔の中国街道に当たってい て、江戸時代にはそこに宿場があり一柳家はその宿場の本陣であったという。ところが、維新の際に 主人が・・・今のところに移ってくると、当時のどさくさまぎれに二束三文で田地を買いこみ、たち まち大地主になりすましたのである》 と正史は山ノ谷に一柳家が移ってきた理由を説明している。
乗り合い自動車が事故ったのはあの先のカーブ

今なお当時の面影を残す宿場町のはずれ、川辺橋から急カーブで宿場町に入って来る辺りが「乗り合 い自動車事故現場」跡だろうか。白木静子は、克子が殺された動機の解明となる2通の手紙を携え、 一柳家へ向かおうと清音駅前からバスに乗るのだが、そのバスが電柱に乗りあげる事故を起こし、木 内医院に担ぎこまれる。もうここまで“現場検証”を続けると、現実とフィクションとの境目が怪し くなりそうだ。
川辺橋を渡って清音へ

さて腹も減ってきた。岡山まで出て何か食べるとしよう。そして金田一耕助も事件を解決して帰る時 に再び通ったと思われる旧川辺橋(長さ約500m)を向い風をついて渡り、清音駅へ戻った。 (※1)《》部分は『本陣殺人事件』の文章からの引用。以下同じ。記載にあたっては『角川文庫』      版を参考にさせて頂いた。 (※2)敢えて文意が伝わるよう原文の標記とさせて頂いた。        (本日の歩行時間 2時間30分)

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