山を駈ける風になれ2007年 3月号

 
2007年2月4日(日)宝塚/小浜(宿)案内(2.5万図 宝塚)  
明け方まで降っていた雨も上がり、予定通り能勢の低山縦走しようとMTBで出発。川西能勢口回りで紫合、
阿古谷と北上するが途中から霧雨に包まれ、様子を見ながらゆっくりかいもり峠を上っていたが、霧雨は止
みそうにない。
これでは冬枯れの雑木林の中を楽しく疾走できそうにもない。重苦しい雲に見切りをつけてUターン、自宅
まであと数キロとなったところで薄日が差し始める。このまま帰っても物足りない。よし宝塚の隠れた観光
スポット、小浜(こはま)地区を久しぶりに訪れてみよう。

小浜は明応年間(1492−1500年)、真宗毫摂寺の寺内町として成立した町で、町の三方を蛇行する
大堀川に囲まれた天然の要害の地である。
江戸期になると有馬街道、西宮街道、京伏見街道の交わる交通の要衝であったことから宿場町として栄え、
旅籠、商家、芝居小屋などが軒を連ねた他、大工、左官も多く「小浜組」と呼ばれていたという。

道標/「右 大坂 左 の道」
有馬街道から北門に入る角にある

有馬街道から小浜宿に入る手前にある。『右 大坂  左 の道』と刻まれている。
国府橋

大堀川に架かる橋。川は10mほど下を流れている。まさに天然の要害。
北門跡(愛宕社がある)

国府橋を渡ったところにある。愛宕社が祀られている。ここが有馬街道からの宿場への入口。
倉橋町
(昔は大工、左官が住んでいたところ)

江戸時代は大工、左官が住んでいた地区。
井川家(右。造り酒屋だった)
道の左は山中家と小浜歴史資料館

震災で往時の建物の大半が倒壊し、宿場町の雰囲気は少なくなった小浜だが、この辺りは修復されて何とか 雰囲気を保っている。右側の井川家は昔造り酒屋だったところ。
山中家

山中鹿之助の16代か17代の子孫(忘れた^^;)と言われる。秀吉有馬入湯の折、この山中家に立ち寄り、 利休に名水「玉の井」で茶を点てさせたと伝えられる。平成6年に敷地の一部を市に寄贈して小浜歴史資料 館が作られた。
代官所跡
今は公民館が建っている

今は公民館が建っている。
毫摂寺

「ごうしょうじ」と読む。小浜地区はこの毫摂寺と共に栄えてきたといってもいい。境内に立つと、宝塚IC のすぐ近くだとは思えない静けさに包まれている。今の建物は江戸末期のものという。
土塀

毫摂寺の土塀。震災で崩れたが、この一角だけが残ったのだろうか。今はフェンスが張られている。
南門跡

西宮街道から小浜宿に入るにはこの南門をくぐらねばならなかった。ここにも愛宕社が祀られている。
皇大神社

鳥居の右下に古い道標がある。「右 きよ水」とある。
谷風岩五郎の墓

あの有名な横綱谷風ではない(あちらの名前は梶ノ助)。ここ小浜出身の力士で明治9年、(大坂相撲だろう) 大関まで昇進したという。前頭に出世した明治5年に上の皇大神社で奉納相撲が行われたという。
首地蔵

昔、小浜がまだ浜辺であった頃に打ち上げられたとか、伊丹の殿様の夢枕にお告げがあり持病の頭痛を治して もらったお礼に刻んだとか諸説ある。右の地蔵が昔からの地蔵。左は近年のもの。
東門跡

京伏見街道側からの入り口にあたる。ここにも愛宕社が祀られている。 (本日の走行距離  58km) 2007年2月12日(月)名塩/木ノ元地蔵尊〜地蔵山(1万図 宝塚)   3連休の最終日になりました。昨日は霰舞う泉郷峠を越えて、雨の篠山を走ったが(レポートなし)、目ま ぐるしく変わる天気に翻弄された感じ。今日は昨日とうって変わって穏やかな天気に近場散策をしようとM TBで出発(7時01分)。 自宅を出ると、交通量の多いR176を避け、宿場町の面影残る生瀬の中心部を走る。一旦R176に出る が、それもつかの間、「日本三体地蔵之一」木ノ元地蔵尊へ(7時10分)。
朝日に輝く木ノ元地蔵尊本堂

日本三体地蔵とあるが、あとの2ヵ所はどこなのだろう。そういえば門戸厄神も日本三体厄神だっけ。木ノ 元地蔵尊木元寺は、文安2年(1445年)戦に敗れこの地で一族郎党と共に自害して果てた赤松満政を供 養して建てられたことに始まるが、その後荒廃し、大正になってから復興されたという。今はコンクリート 作りの本堂で些か味気ないが、紅葉の頃はモミジが美しい。地蔵盆の時は賑わうらしい。 さて、境内から背後の山に通じている山道を登るとすぐに水路を切った山道に出る。小さな茂みを巻くよう に南西に進むと、中国道を跨ぐ橋の上に出る。MTBを橋の上にデポして小さな茂みの中に入る。シダを掻 き分けると4等三角点の金属標が埋まっている(7時25分)。
裏にはこんな山道が地蔵山4等三角点

点名「地蔵山」128.37mである。地蔵山の名は木ノ元地蔵尊の背後にある山ということで付けられた ものだろう。木元寺の山号は「琴鳴山」である。 中国道をまたぐ橋の先に山道が続いているのが見える。すぐ先に鉄塔が見えているのでそこまでか。このま ま琴鳴山に登る道が見つかればいいのだが。
中国道をまたぐ橋から地蔵山を振り返る

橋を渡ると山道は2手に別れる。右は水路が切ってある平行道。左は鉄塔に向かう道。鉄塔への道を行く。 鉄塔の手前に畑がある。今も作物を作っているようである。中国道が出来て分断されたのであろう。 畑の横を通って山道が続いている。ここも水路と並行する平行道である。またもや左手に山に登る枝道が現 れる。しばらく平行道を走る。乗車率100%だが、道は琴鳴山の山裾を巻くだけで尼子谷に合流してしま いそうである。さきほどの分岐まで戻り枝道を登る。
いろいろ平行道はあるけれど・・・

いきなり埋まってしまいそうなシダ藪が現れる。MTBをデポしてシダ藪を掻き分けて登っていくと、左手 から踏跡が合流、やがて歩きやすい小径になる。 が、これもまた高度を上げることなく山裾を巻きながら尼子谷に向かう平行道のようである。少なくともこ こまで3本の平行道に出会ったことになる。一体この山はどうなっているのか。一ヶ所、人が作ったような 山に向かう分岐を見つけたが、標高180mポイントで完全なヤブに還ってしまっている。 今日は何が何でも山頂を目指す山歩きではないので元来た道を戻り、MTBを拾って木ノ元地蔵尊の境内に 降りる(8時10分)。それにしても穏やかな天気だ。今日遠出をすべきだったなと思いながら宝塚周辺を ポタリングしながら帰宅した。 (本日の走行距離  17km) 2007年2月17日(土)社/点名「梅木峠」(2.5万図 比延)   久しぶりに週末雨の予報のまま土曜の朝を迎えた。昼過ぎには雨が降り出すという。風邪のせいか頭痛も一 向に収まる気配がないので、ショートコース用に考えていた表記の低山を訪問することにする。テーマは“ 幻の三国山を訪ねて”。 30年近く前に書店で買った寛延元年版『摂津国名所大絵図』の北西隅っこに「三国山」と名前が記された 山が描かれている。大川(村名)から蛇行する川を渡り、山越えで木津に抜ける道が記されている。そして 以下のとおりの記述がある。 「三国山ヨリ丹州木津村エ出ル摂州大川瀬村ヨリ一里ノ内牛馬往来無之」
三国山(<−左端の山です)

大川は今の三田市大川瀬のことである。蛇行する川は東条川であろう。木津は現在の篠山市今田町木津(コ ツ)。だが、この2つの村の間に「三国山」と呼ばれる山は無く、小さな無名の山塊が犇いているだけの地 である。「三国山」はどの山なのか。 「三国山」の位置を推理する。ヒントは山の名前。「三国」はその名のとおり三国の境にあるところから付 けられたものであろう。私のサイクル・フィールド“北摂”にも「三国岳」、「三国ケ嶽」などと呼ばれる 山はいくつかあるが、3つの町村の境にはなっていても厳密に三国の境にある山は少ない。 だが、この地はどうだろうか。三田市と篠山市と加東市、旧国名で「摂津」「丹波」「播磨」の三国がまさ に境を接する地域である。 旧三国境が交わる場所には絵図に描かれているような立派な山は無いが、梅木峠という峠がある。そして絵 図には山裾に「上ツ池」と記された池が描かれている。梅木峠のすぐ西に池がある。とすれば「三国山」と は峠の北西約200mにある小さな三角点のある山(点名「梅木峠」)のことだろうか。 確かに過去何度か走った記憶からすると、前山(394.2m)の南西から梅木峠を越えて平木に抜ける道 は昔の道の面影を残していた。しかし「上ツ池」とあるからには、少なくとも「下ツ池」など2つ以上の池 が並んでいなくてはいけないがどうだろうか。 寛政11年『丹波国図』(いずれも復刻版)を拡げる。 「木津村ヨリ摂津大川瀬村エ一里七丁」とあるが、「三国山」は描かれていない。山国丹波からすればどこ にでもあるありふれた山越えの道であったようである。ちなみに『播磨国図』にも「三国山」は無い。 『摂津国名所大絵図』は、改訂版がある。天保7年のものである。一見詳しく調査しなおされたように思え るが、それは摂津国の中心部だけで、周辺部分の峠の記述は寛延元年版の引用といってもいいほどほとんど 同じことしか書かれていない。 「三国山」についても同じであるが、新たに山越えの道に「三国峠」の名前が見える(「上ツ池」は逆に削 除されている)。 「三国峠」は今の梅木峠ではないだろうか。机上であれこれ考えていても、これ以上新しいものは出てきそ うにもないので現地に走りに行ってみることにする。(西村京太郎の十津川警部の心境だ?) 6時30分、曇っている割にはえらく寒い中、ロードで出発する。赤坂峠は−1℃。健康な状態でも頭が痛 い寒さである。薄ら寒い天気は一向に変わらず新三田では逆に−2℃と電光表示されている。 油井でR176から別れ、西ケ奥峠越えで今田町に入り、本荘手前のコンビニで食料調達をして、今田新田、 市原と下り、峠を越えて平木に着く(8時32分)。道路を境に東が篠山市今田町、西が加東市社町である。 家の庭先(道路脇)に老松がある。見事な枝ぶりである。「社町の指定樹木1号」の認定表示がある。斜め 向かいの家の前にも大きな松の切り株がある。きっと古の街道筋だったのであろう。畑の中の道を南へ、梅 木峠に向かう。
庭先の松の巨木
昔の街道筋の名残か
梅木峠(北から南へ)

峠鞍部手前に西に入る山道がある。自転車を降り、「押し」ながら山道を西へ入る。左手に小さな池が現れ る。絵図の「上ツ池」か? 否、一番最初に現れるのだから「下ツ池」でないといけない。池の傍の木にロ ードを立てかけ、広い山道を歩いていく(8時47分)。
巡視路を行く

この道はNo183鉄塔に向かう巡視路でもある。すぐに2つ目、3つ目の池が現れる。ふむ。やはりこれ が「上ツ池」か。「上ツ池?」の周囲を時計回りに回りこむ様に付けられた山道を進むと、ゴルフ場や平木 鉱山のある山との分岐に到る。はっきりした巡視路が続いている。 平木鉱山は古地図には載っていない。埋蔵量500万トンとも云われる日本最大級の蝋石の鉱山だが、今の 工場は45年ほど前に出来たものだ。大きな山塊だが、完全に播磨の国に属している。 鉄塔No183の横を北進すると4等三角点の埋まる点名「梅木峠」(316.8m)に到着(8時55分) した。
4等三角点「梅木峠」山頂

雑木に覆われ展望は無い。北西方向に見える大きな山影は清水寺のある御嶽山か。ここが絵図の「三国山」 なのだろうか。当然のことながらそれらしき証拠を示すものは何も無い。暫く山頂に憩って峠に下る。 峠の鞍部に一軒の家がある。その庭と道路との境界にマンリョウの木に囲まれて石の道標が2つ、小さな石 仏が1体固まって鎮座している(9時17分)。まさに、この地点が社と今田と三田の境界が接するところ =三国の境である。ここが「三国峠」であったことは間違いないと思われる。
三国境界にある道標。手前は石仏

石仏はほとんど風化してしまっている。道標も奥の1枚に『左 大川瀬』の文字が読めるが、あとは判読不 能である。今まで走り抜けていたので、ここに道標があることすら気づかなかった。今日のツーリングもま た摂津の国に戻ってきたようだ。 雨の降り出しも近いような雲行きになってきた。まだまだ絵図で確認した道草したいポイントはあったが、 2週続けて雨に祟られるのは嫌なので、素直に帰路についた。 (本日の走行距離  85km) 2007年2月27日(火)能勢/柊峠〜東山〜歌垣山〜堀越峠(2.5万図 妙見山)   “能勢の無名の低山を訪ねる”シリーズ第8回。東山は歌垣山の北東約1kmにある545m標高点山。山 名は『能勢町史』から拾った。同書第1巻には『倉垣村は東山と言い、杉原村は奥山という野山が、・・・』 という記述がある。 倉垣の東、杉原の奥(北)にある山といえば、この545山を最高点とする府境に連なる500m前後の山 塊と比定、当レポートでは倉垣側からの呼称「東山」を使うことにした。 久しぶりに平日に休みを取っての走り。出勤の流れに一人逆行して走るのは楽しい。おまけに今日は文句な しの好天が望めるとあっては言うことなしだ。 6時30分にMTBで出発する。今月4日に走った時は全く足が回らなかったが、今日は3日前に走ったに も拘らずなかなか快調だ。川西能勢口周りで県道を北上、紫合で阿古谷方面に入り、かいもり峠、稲荷坂を 越えて今西に下り、栗栖のコンビニで食料を調達する(8時00分)。 2つ峠を越えたらいいペースになってきた。府道を北上、天神橋から本日3つ目の峠、暮坂峠にかかる。通 学途中の高校生が前方をバラバラと自転車で上っている。能勢高校か。声を掛けるとどの生徒も元気に挨拶 を返してくれる。MTBで頑張って上っている男の子に「毎日この坂を上って通学は凄いね」って言ったら、 「そうですか」との返事。彼らには当たり前の通学風景でも、私が毎日見ている電車通学の高校生の通学風 景とはあまりにも違うので新鮮な驚きを覚えてしまう。もっとも朝からガンガン、ヒルクライムをしている オジサンの方が不思議だろうが・・・。 先行する高校生を全員抜き去って(すぐレース・モードになってしまう^^;)、暮坂峠を下り終えると今度は 4つ目、柊峠。峠の頂上で休憩を兼ねて記念写真を撮る(8時40分)。
柊峠変電所横の展望ポイント

ひと息ついて更に上りに入る(峠に着いても下りはない)。能勢変電所への激坂を行く。標高450mを越 えた頃変電所が現れる。足を休めながら下りに入り、昨年夏に訪れた広ケ嶽登山口に(8時59分)。 MTBを担いで関電の巡視路を10分も登れば、鉄塔の建つ広ケ嶽山頂の平坦地に到着(9時10分)。
広ケ嶽山頂から小和田山方面を臨むさあ、次は東山だ

前回はロードだったのでここで引き返したが、今日はMTB,南に見える東山に向って山道を走る。谷筋を 上がってくる地形図の破線はもう消えているようである。鉄塔から10分ほどで能勢、亀岡境界の尾根に合 流する。
能勢・亀岡の稜線境界は
ダブルトラックの快走路
なんぼほど走れんの!

予想以上にいい切り開きがある。切り開きというより整備されたダブルトラックの林道といった方がいいか も知れない。落ち葉の絨毯が厚く堆積し、高岳稜線の切り開きより格段に走りやすい道である。松林の中を 高速で駆け抜ける。と、地形図の分岐に到着(9時32分)。 「え?!」。そこには『近畿自然歩道』の標識が立っている。だからこんなに整備されていたのか。それに しても自然の味わいがあり、人工的な感じはしない。でも、こんな道誰がハイキングで歩く? さて分岐と書いたが、府境尾根は踏跡程度の切り開きしかなく、ふつーの人は分岐とは気づかない。立ち木 に掴まりながら5分も登れば東山山頂に到着(9時37分)。
東山山頂。ここが本当の広ケ嶽?

山頂には1m少しの石標が建っている。昭和54年に建立した石碑である。裏に回ると『福龍寺別当法堂坊 跡 通称堂とこ』と記されている。ん?ここが広ケ嶽と呼ばれる山だったのか。ふーむ、もう少し文献をあ さってみないといけないようだ。 頂上部は勿論雑木に覆われて展望はない。南に稜線に沿って踏跡は続いているようである。頂上部でうろう ろしている間にどこから登ってきたのか分からなくなってしまった。コンパスをたよりに登ってきたと思わ れる方角に向かって下りたが、20mほどずれていた。 分岐にデポしていたMTBに跨り、歌垣山目指して西へ自然歩道を爆走する。ところどころイバラが道の上 に群生している箇所がある。この時季だから問題無いが、夏場はかなりイバラが煩そうだ。誰も歩かなけれ ば2−3年でイバラに覆われるかも知れない。 ブレーキレバーを掴む握力が無くなってきた頃、杉原からの林道が左手から合流する。簡易舗装の道に変わ る。地形図の果樹園マークがある林道がぐにゃぐにゃ曲がっているところである。果樹はクリである。手持 ちの地形図では林道は標高500mラインに乗ったところで切れるが、現在はこのまま歌垣山(男山)の頂 上まで続いている。男山到着(10時00分)。
歌垣山山頂(男山)東屋から三草、竜王、そして奥に羽束、
大船といった北摂の主役達が見渡せる

93年12月以来、13年ぶりの歌垣山である。が、あまりに様変わりして些か面喰ってしまう。当時は細 い山道を進んだ先の草むらの中央に大江匡房の歌碑が立っていたものだが、今は「かがい広場」として整備 され、大きなバンガロー風の山小屋や、広い東屋、果ては「かがいの池」などと人工池まで作られている。 せっかくだから東屋のベンチに座ってサンドイッチを頬張る。この分だと堀越峠まで簡易舗装路になってい るんじゃないだろうな、などと一人笑えないジョークが頭の中を往来する。登山記念の記帳箱があった筈だ が無い。そうだろう。杉原からなら車で山頂に着いてしまう。 軽食を済ませ簡易舗装を南へ行くと三角点のある女山に着く(10時17分)。MTBで1分の距離だ。三 角点は立派なプレートで覆われている。こちらは見晴らし展望台まで設置されている。せっかくだから展望 台に上がってみた。が、松林に遮られ展望は無い。かろうじて深山が見えるくらいである。
歌垣山三角点
たいそうなプレートで飾られている
それでも深山が見えた

堀越峠に向かう。さすがに昔の山道に戻り、100%乗車が続く・・・と思ったら、突然階段が現れ乗車で きなくなる。MTBで走れないようにするためかというように階段はジグザグに付けられている。仕方なく 「押し」て下る。 階段が終れば、また100%乗車可能になる。ほとんど下りることなく、堀越峠に出る(10時33分)。 いつも妙見奥ノ院の方の道を行くので、今日は東の送電線に沿った道をいく。何でもないように見えて実は この道も堀越峠から90m近く上っている。一体今日は何mMTBで上ったろうか。汗だくで峠を越えると 「麗し」の下り。あっという間に野間中に出る(11時01分)。 大槌峠越えで帰ろうかと思っていたが、予定外のアップダウンが多く、野間川沿いに下り一本で帰ることに する。と、途中で「道路工事中迂回」の案内が・・・。今日はよくよくすんなりとは下れないようになって いるらしい。短い坂を上れば去年暮に訪れた信田の森。塩谷温泉跡の前を通って一庫に下った。 (本日の走行距離  84km) 織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。

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