山を駈ける風になれ2011年 3月号
2011年2月5日(土)亀岡/高熊山岩窟~丁塚山(2.5万図 亀岡)
厳しい寒さが一段落して迎えた週末、去年朝日山を訪ねた時から計画していた丁塚山を目指
す。山頂直下には出口王仁三郎が1週間籠って宇宙の真理を会得したという岩窟があるとい
う。併せて訪ねてみたい。
午前6時45スタート。気温はプラス。マイナス6℃の中を走った先週とはうって変わって
春の陽気が漂う中、川西-余野-穴太と最短距離で亀岡盆地に向かう。8時28分、西国三
十三番札所穴太寺に到着。門前を掃く女性の箒の音だけが聞こえる静かな朝である。
 |
穴太の古い家並み |
---|
穴太の古い民家の間を通り丁塚山に向かう道を走る。地形図を確認しないで走っているうち
に道を間違え湿地帯の中に突っ込む。よく確認すれば正しい道は堰堤を挟んで対岸にある。
堰堤をロード担いで横切ることもできず、一旦戻って走り直すハプニングも。
こういう日は得てして何度か道間違いをするものだ。正規の道は地道の林道なのでロードで
走れず途中の山の中にデポ、歩き始めればすぐに「高熊山登山口」の標識が現れる(9時1
5分)。
 |
高熊山登山口 |
---|
まるで箒で掃き清めたかのように美しい登山道を登ること5分で高さ10mほどの岩壁が広
がるテラスが現れる。ここが出口王仁三郎修行の地である。
 |
出口王仁三郎修行の洞窟 |
---|
「明治31年3月1日から1週間、神命のままに、この岩窟に籠った王仁三郎は、一切の飲
食・無言の行を行う。その間彼の精霊は現幽神3界を巡り、神人感合の境地に達し、宇宙の
真相を体得し、救世の使命を自覚した。・・・いわば全人類の聖地といえよう」と麓の解説
板に書かれてあった場所である。こんな身近なところに全人類の聖地があったとは・・・。
高熊山とはいうが山ではない。高熊は高倉。神が鎮座する岩倉から変化し名前であることは
この巨岩を観れば誰でも容易に想像がつく。
さて、巨岩の前を横切り更に付けられた道を進むが、やがて下っていく様子に、これはこの
場所を管理している大本教が整備した道で登山道ではなかったことに気づく。
山頂まで標高差にして50m内外というところだろうか、かすかな踏跡を見つけ、あと適当
にヤブ漕ぎをして丁塚山に直登する(9時36分)。
 |
丁塚山山頂 |
---|
登頂標が数枚架かっただけの静かな山頂である。展望はない。10分ほど山頂で憩った後、
西の360コブから尾根を南に歩いて高熊山登山口へ周回で下りることにする。360コブ
から南南西にある360コブまでの1kmほどの区間はマツタケ山のロープが尾根の両側に
張られすいすい歩けるフカフカ絨毯道である。
 |
丁塚山山頂 |
---|
地形図の破線は360コブ手前を東西に走っているが、実際は360コブを越えて西へ向か
い、朝日山(460の最高点)の南尾根へ合流する尾根に続いている。高熊山登山口に下り
る道を探すのに5分ほど360コブ周辺を歩き回っていると上手い具合に正解の道を見つけ
る。
実は360コブの南側を東に向かう道が付いている。しかしいきなり道とはいえないような
箇所が現れるので正解とは思えないのだが、歩いているうちにしっかりとした山道になり、
いつしかマツタケ山のロ-プも現れる道に変わり、やがて分岐が現れる(10時15分)。
直進は348標高点山へ向かう道、左は谷筋に下る道である。後者の道を辿る。急降下の
道で5分で高熊山登山口横に下り着き更に下ってデポしていた自転車を回収して穴太の里
に向かう。
出口王仁三郎の生家である上田家の祖先が城郭を構えていたという「殿山」と呼ばれてい
る山が3等三角点「穴太」ではないかと推測し、竹林の横から一気に「穴太」(162.
4m)に登る(10時45分)。史跡の碑などを期待したが適当に荒れた雑木山で真偽の
ほどはわからず。堀切といわれればそんな風に見えなくもない場所もあったが、自然の地
形といえる状況、三角点にタッチして下山する。
 |
丁塚山山頂 |
---|
昼前から晴れるとの予報だったが全く晴れる気配なし。王仁三郎の生家跡や地獄川と名付
けられた川を訪ねる予定であったが、腹が減ったなと思っている間にすっかり忘れてしま
い、素通り・通過で気が付いたのはもう能勢路に入ったあとだった。
(本日の走行距離 91km)
2011年2月12日(土)宝塚自転車散歩/第1回宝塚温泉界隈(1万図 宝塚)
3連休の2日目、今日も雪との予報に以前より温めていた標記企画を実行する。宝塚自転
車散歩。第1回は宝塚温泉(旧温泉)界隈を古い写真と共にその変遷ぶりを見ていくこと
にしたい。(古い写真は『ふるさとの思い出 写真集 宝塚 -明治・大正・昭和』図書
刊行会、ならびにHP『じゅうそうさんの宝塚今昔物語』を使わせて頂きました)
1.宝塚温泉全景
 |
 |
大正初期の宝塚温泉街 | ほぼ同じ位置から撮った今の宝塚温泉 |
---|
大正初期の温泉街の写真とほぼ同じ角度から撮った現在の写真である。古い写真中央や
や右寄りの大きな屋根の旅館は、明治20年この地で温泉業を開業した小佐治豊三郎の「
分銅屋」である。今は廃業し、跡地は湯本台広場(六甲全山縦走のゴール場所)になって
いる。
分銅屋の前から道は緩くS字になり生瀬方面(写真左下手前方向)に続いているところ
は今もそのままである。写真右下に向かって塩谷川沿いに旅館が軒を連ねているが、今は
マンション群に変わり面影は無い。
2.宝塚温泉石碑
 |
 |
明治30年水害前の石碑 | 今は若水の敷地内に移動した石碑 |
---|
私の一番古い記憶では今の場所と細い道を挟んで反対側、宝塚第一ホテル(高校野球三
重県代表校の定宿。今は無い)の前にあったが、S字橋の整備と阪神大震災後の周辺地区
の再開発等で今はホテル若水の敷地内に移動している。
尤も今鎮座している場所が旧「宝塚温泉」の正面玄関に近いといえば近い場所ではある。
3.宝来橋
 |
 |
大正中期頃の宝来橋 | 現在の宝来橋 |
---|
明治20年宝塚温泉が本格開業後16年を経た明治36年、阪鶴鉄道宝塚駅と温泉街を
最短距離で結ぶ場所に宝来橋が架けられた。当時は1本脚のユニークな橋であったが、水
害の都度何度も流されては架けかえられ、現在の橋はフランス人彫刻家、マルタ・パン氏
の設計で平成6年に完成した5代目。
S字橋がお洒落だが、右岸と左岸の高低差を感じせないようにする意味合いもある。古
い写真にあるタンサン水湧出場所はきれいに整備され何も残っていない。また4代目の橋
までは右岸から湯本通りに出る緩い傾斜の旧温泉街の風情を残す緩い坂があったが、それ
も今は残っていない。
4.“幻の橋”迎宝橋
 |
 |
橋の名前が彫られた欄干 | 対岸の大劇場を臨む |
---|
宝来橋に続いて明冶43年武庫川に架けられたのが迎宝橋である。新温泉の整備と共に
右の写真のように大劇場に最短距離で行ける橋であった(正確には写真より数メートル上
流の位置に架けられていたようである)。
多くのヅカスター、ヅカファンが行き来したこの橋は、昭和25年の洪水(ジェーン台
風か)で流失して以来無くなったままとなっている。
5.丁字ケ滝
 |
 |
大正初期の丁字ケ滝 | 今の丁字ケ滝 |
---|
宝塚八景の一つに数えられた丁字ケ滝は落差約10m、松やツツジの茂った岩山の渓谷
に白布をかけたような美しい滝で、傍らには茶屋があって観光客が涼を求めたという。昭
和41年宝塚市が施主となってこの滝つぼ近くに新しい泉源を求めてボーリング作業を行
ったが失敗。
今はヤブに還っているが、水量は少ないものの滝は健在であった。
6.見返り岩
 |
 |
明治末期頃の見返り岩 | 今の見返り岩 |
---|
丁字ケ滝と県道を挟んで向かいあっているのが見返り岩である。明治の末期に岩盤を切
り開いて道路を作った時に出来た奇岩である。古い写真と同じ位置から写真を撮ろうとす
ると木が邪魔になって上手く撮れないので、結局見返り岩に接近して撮った。
対岸に宝塚グランドホテルがあった頃は、この岩と背後の絶壁に電飾が施され、夜にな
ると中国の蓬莱山をイメージしたライトアップがなされていた。また、更にその前はこの
岩の付近から対岸に向かって千歳橋が架かっていたが、これも昭和20年の洪水ですべて
流失。橋の基礎の址でも残っていないかと見てみたが、それらしき痕跡すら見つけること
はできなかった。
古い写真と見比べると、見返り岩が随分小さくなったように感じる。阪神大震災の時に
崩れたのだろうか。確かに何回かの余震で県道上に直径2m大の岩が転がっていた記憶は
あるが、見返り岩が崩れたのか、山側の岩壁が崩れたのかはっきりとは覚えていない。
7.水泳場-愛の松原
 |
 |
昭和25年の愛の松原 | 今の愛の松原付近 |
---|
先に述べた見返り岩付近から対岸の旧宝塚グランドホテル辺りは愛の松原と呼ばれる水
泳場であったという。水量が少ない現在ではとても想像できないが、昭和25年の写真を
見ると大変な賑わいであったことがわかる。
水質汚染で昭和30年代後半に閉鎖されたが、当時は風光明媚な景色の中で贅沢な水泳
ができたことであろう(今でも500mほど上流の生瀬大橋付近では夏になると泳いでい
る子供がいる)。
8.ウヰルキンソン炭酸
 |
 |
ウヰルキンソン記念館 | 謎のトンネル |
---|
今の愛の松原 写真の右端に写っているマンションの場所にウヰルキンソン(炭酸水)の
工場があった。もともとは小佐治豊三郎らが設立した温泉会社が掘削中に発見、炭酸水を
瓶詰にするために作った作業場をJ.C.ウィルキンソンが譲り受け、更に塩谷川沿いに
工場を建設、タンサン・ホテルなるものも作った。後に生瀬に工場を建設、10年くらい
前まで営業をしていた。
記念館は当時の工場の外壁の雰囲気を取り入れて作られているが、マンションの建設と
共に建てられた新しいものである。
右の“謎のトンネル”と題した一枚は、丁字ケ滝近くの岩盤にある。何のためのトンネ
ルか、どこまで続いているのか不明だが、ウヰルキンソンの工場写真にこれとよく似た鉱
泉水の採取口を見たことがある。
「炭酸水」と「廃トンネル」。ここから先はやまあそさんにお任せするとしようか(笑)。
(本日の走行距離 29km)
2011年2月20日(日)宝塚自転車散歩/第2回雲雀丘花屋敷界隈
(2.5万図 伊丹)
先週に続いて宝塚自転車散歩。第2回は宝塚新温泉と共に阪神間モダニズム文化を代表する
雲雀丘花屋敷界隈を古い写真を交えながら紹介したい。(古い写真は『ふるさとの思い出
写真集 宝塚 -明治・大正・昭和』図書刊行会、ならびに『宝塚雲雀丘・花屋敷物語』宝
塚雲雀丘・花屋敷物語編集委員会 を使わせて頂きました)
1.雲雀丘メインストリート
 |
 |
昭和初期のメインストリート | 今のメインストリートの様子 |
---|
 |
|
駅前のプロムナードで車に乗る阿部元太郎氏 | |
---|
昭和初期のメインストリートとほぼ同じ方向から撮った現在の写真の対比である。3枚目
の写真はこの地を開発し、自らもこの地に住んだ阿部元太郎氏である。メインストリートの
奥に見えるお屋敷は雲雀丘を象徴する建物と言われた林邸。今そのお屋敷はないが、道路の
両脇に植えられたシュロ並木に当時の面影を偲ぶことができる。
2.高崎記念館
 |
 |
高崎記念館 | 高崎記念館南門 |
---|
設計はW.M.ヴォーリズ。近江八幡の病院に赴任していた医師がヴォーリズに設計を依
頼。後に東洋製缶の高崎達之助氏が購入したもので、今は同社の迎賓館になっている。余談
ながらヴォーリズはわが母校の校舎の設計者でもあり馴染み深い。コロニアルスタイル様式
で、南門に回ると高崎氏が自ら植えたといわれるパームツリーが傍のライオンの彫刻と共に
異色の景観を放っている。
3.今も当時の雰囲気を残すお屋敷群
 |
 |
庄司邸 | 森本邸 |
---|
『どうも従来郊外生活を思ひ立って、家を作られる方が地価の非常に高い住まれた習慣か
らマア二百坪か三百坪の地所があればよからうといふので精々奮発されても五六百坪か千坪
が留りであります。其れが為にせっかく郊外に出て広々とした天地に、郊外生活の真価を味
わふことが出来ぬのであります・・・』
阿部元太郎は千坪以上の敷地を備えた住宅地を開発して、郊外生活を楽しめる環境をこの雲
雀丘地区に求めたのであるが、今も写真のような邸宅がたくさん残っており、御影に住んで
いた子供の頃に見た風景に似たなつかしさを覚えるものがある。
4.トロリーバス
 |
 |
トロリーバス | トロリーバスが走っていた今の満願寺線 |
---|
花屋敷地区を代表するのが日本初の無軌道電車(トロリーバス)である。今の花屋敷バス
停から長尾台バス停までの1.3kmの営業が開始されたのが昭和3年。満願時前にあった
花屋敷温泉、花屋敷遊園への便を図るために設けられたものだったが、乗車賃の高さとおり
しもの昭和恐慌のあおりを受け、実質2年半の営業で幕を閉じた。
その軌道は今の満願寺線。ところどころ斜度10%を超す急坂が現れるきつい道で、ここを
長さ4.5m、重さ1.5トン、定員30人の小型車両が走っていた。当時これといった停
留所はなく、サイドブレーキの代わりに置き石をしていたそうである。
5.花屋敷温泉
 |
トロリーバスの終点だった温泉前停留所付近 |
---|
今の長尾台バス停あたりがトロリーバスの終点。写真の左手に分岐する道が、トロリーバ
スが回転する場所であったようである。ここはちょっとした峠になっていて満願寺方面(写
真奥)に向けて下っていて盆地状になっている。ここに花屋敷温泉、そして更にその奥、今
のふじガ丘地区に新花屋敷温泉があったと言われているが、その痕跡を辿れるものは何も無
い。
当時の温泉街略図には、温泉街を囲むように「愛宕山」「八洲嶺」「温泉岳」「石切山」
が描かれている。「温泉岳」と「八洲嶺」は今のどこの山だろうか。絵の位置から「温泉岳」
はどうも満願寺西山のようである。とすると「八洲嶺」は小盆地の南側の山か。また調べる
ところが増えた。
6.万年坂の地蔵石仏
 |
万年坂の地蔵石仏 |
---|
宝塚大学から満願寺線を少し下ったところにある。花崗岩の中に二重光背を作り、その中に
彫り刻んだものであると傍らの解説板に記されている。高さ、幅、奥行総べて約1.5mの
大きさ。鎌倉時代後半のものという。
7.花屋敷駅
 |
 |
昭和35年頃の花屋敷駅 | 駅があった今の寺畑踏切付近 |
---|
雲雀丘駅は阿部元太郎が宅地開発に合わせて作った駅で、元からあったのがこの花屋敷駅
である。今の寺畑踏切の西側にあった花屋敷駅は西隣の雲雀丘駅と距離にして600mしか
離れておらず、更に両方のホ-ムは4mしか離れていなかったというから凄い。昭和34年
に両駅を合併することになり、後から出来た雲雀丘駅が残ることになった。しかしいろいろ
ゴタゴタがあり花屋敷駅が姿を消したのは昭和37年のことであったと記されている。
新旧の写真を見比べて頂いても当時の痕跡は何も残っていない。唯一背後の山の形に同じ場
所の写真であることが分かるだけである。
今回は距離は短いものの、上ったり下ったりヒルクライムの練習になるような坂だらけだっ
た。
昨日130km近く走った(レポートなし)身には結構応える“散歩”になった。
(本日の走行距離 23km)
織田(おりた)さんへのメールはbabrx800@jttk.zaq.ne.jpまで・・・。
表紙にもどる
『山であそぼっ』にもどる